2分でわかる【明智光秀】の生涯~【本能寺の変】までの道のり

2分でわかる【明智光秀】の生涯~【本能寺の変】までの道のり

2020年の大河ドラマは「麒麟がくる」。戦国時代、天下統一を目前にした織田信長を、京都の本能寺で撃った武将・明智光秀の数奇な生涯を描く物語です。

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戦国時代の歴史上人物として有名な織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康については、学校の教科書で何回も学び、その生涯をテレビドラマや映画で幾度となく追体験した人も多いでしょう。

ただ、明智光秀については、織田信長を撃った「三日天下の武将」ということ以外、一般の人には知られていません。

そこで今回は、「麒麟がくる」を見るうえで、「最低、このぐらいは抑えて置いてほしい」という明智光秀の「経歴」を、2分程度で分かり易くご紹介します。

出生は謎だが、有名武将の家来に

明智氏の家系は、美濃(岐阜県)の名門であった土岐氏から分かれた一族だと言われています。土岐氏というのは、さかのぼれば清和源氏につながり、始祖は鎌倉幕府に仕えた古い家柄で、美濃(岐阜県南部)一帯に勢力に拡大するほどでありました。

しかし、光秀と直結する家系については、光秀が信長に謀反を犯したうえに、秀吉の討伐によって死している関係で、ハッキリとしないのが実情です。そのため、現在に至るまで出生地や父親について複数の説があり、定かではありません。(出生については養子説まであります)

それでも、「麒麟がくる」の時代考証を務める静岡大学名誉教授の小和田哲男さんによると、

出生地は、岐阜県可児市瀬田の明智城(長浜城)

だった可能性が高いそうです。

google map より

また、後世の出来事から推測して、

生まれたのは1528(享禄元)年

の説が有力なようです。(ヨーロッパではオスマントルコが猛威を振るっていたころです)

その後、光秀は若い頃、領地を治める父親のところにいたようですが、故郷を離れざる得ない戦が起きます。それは1556(弘治2)年に起きた長良川の戦いです。当時、光秀が仕えていた“美濃のマムシ”と呼ばれた斉藤道三が、息子の義龍と戦って敗れたのです。その際、光秀の城も攻められ、落ち延びたと思われます。<光秀=推定28歳>

一旦姿を消した光秀が、再び姿を現したのが、当時、越前(福井県)の戦国大名であった

朝倉義景の家来

としての姿でした。これが1562(永禄5)年ごろとされています。<光秀=推定34歳>

将軍の誕生に乗じて出世

1565(永禄8)年。光秀の運命を大きく変える歴史的事件が起きます。それは当時の将軍・足利義輝の暗殺です。<光秀=推定37歳>

この時、幽閉の身から逃げ出した弟・義昭が頼ったのが朝倉義景だったのですが、これが受け入れられませんでした。そこで、義昭を自分のいとこの帰蝶(濃姫)を通して夫の信長に紹介したのが光秀だったのです。

そして1568(永禄11)年、義昭は信長の後ろ盾によって上洛し、15代将軍の座に就くことに。その時、光秀は義景のもとを離れて

将軍の義昭に仕えることになります。<光秀=推定40歳>

京都に入った義昭は抵抗勢力の襲撃を受けますが、その時、光秀も護衛として貢献したようです。それから間もなく、光秀は信長の配下・木下秀吉(のちの豊臣秀吉)と共に京都の治安責任者である奉行に取り立てられました。

信長の配下へ転職

1570(元亀元)年。かつて家来として仕えていた朝倉義景と信長の間で戦いが始まります。光秀は信長軍の一員として出陣しました。

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しかし、信長の妹・お市の方が嫁いでいた北近江(今の滋賀県北部)の浅井長政が朝倉側に味方して参戦。挟み撃ちの境地に立たされた信長は退却せざるを得なくなり、そのしんがりを務めた武将の中に光秀がいたともされています。

その後、信長の軍は一旦は朝倉・浅井連合軍を破るものの、琵琶湖の西側をそって反撃を受けて苦戦を強いられます。結局、信長は天皇と義昭を介して何とか講和に持ち込み、光秀は

湖の西南部の要所・宇佐山城を任されます。<光秀=推定43歳>

Google map より

そして翌年1571(元亀2)年。信長は、先の戦で朝倉・浅井連合軍に加担したことを理由に、比叡山延暦寺の焼き討ちと実行します。光秀はその作戦の重要な役割を担いました。

延暦寺を屈服させたあと、信長は宇佐山城の北に新たな拠点となる坂本城の築城を命じ、そこを光秀に任せました。この時、光秀は周辺地域の統治も担うことになりました。つまり、

正真正銘の一国一城の主になったのです。<光秀=推定48歳>

このころ光秀は、依然として義昭の家臣でしたが、実質的には信長が頼りにする武将の一人であったのは間違いありません。

信長最側近のひとりに

1573(天正元)年、足利義昭が巨大化する織田軍に対し二度にわたり決起しますが、結局、敗れて室町幕府は滅亡しました。しかし、義昭と信長の統括地であった丹波(京都県中部・兵庫県北東部)の領主たちが信長への従属を拒否。そこで1575(天正2)年、信長は同地の攻略に乗り出します。

丹波攻めの総大将に選ばれたのが光秀です。

しかし、この戦では苦戦を強いられます。第一次黒井城の戦いでは、味方の寝返りもあり敗北。その上、各地で展開していた信長軍の支援にも駆り出され、光秀はあっちこっちを飛び回る羽目に。結局、丹波を平定できたのは1580(天正8)年の11月でした。<光秀=推定52歳>

丹波における長年の苦労が報われ、都に隣接する丹波一国を与えられた光秀。この時は、信長家臣のトップ的存在だった思われます。石高で換算しても、丹波は29万石にそれまでの近江志賀郡と合わせて

34万石の大名になったのです。

光秀が築いた丹波の福知山城

さらに光秀の織田家での役割は、「近畿管領(かんれい)」という立場。当時の日本の中心であった近畿周辺の大名たちを軍事面、そして政治面でも統括していたのではないかと思われます。

また、光秀は当時、比較的に信長の近くにおり、遠方の領地を任されていた諸大名との連絡役としての役割もあったでしょう。つまり、信長の「おそば」に常にいた大名が、光秀でした。

そして「本能寺の変」へ

しかし、信長の近くで使えていたことが、光秀の運命を大きく変えていくことになります。

1582(天正10)年になると、信長の権勢は最高潮になっていました。宿敵、武田信玄の後を継いだ勝頼が信長・家康ら連合軍に敗れたのちに自害。畿内では、信長に反抗していた石山本願寺(大阪市)がついに降伏しました。<光秀=推定54歳>

信長の次の課題が、中国と四国地方の攻略でした。中国地方では秀吉が毛利配下の備中(岡山県)の高松城を攻めていました。ところが、毛利方の本軍が支援に駆けつけるという情報が入り、信長は光秀を援軍に向かわせることにしたのです。

光秀は四国の長曾我部元親と和睦の交渉をしていました。それが急転直下、任を解かれて、秀吉の援軍として向うことに。

ライバルの助っ人になり果てた、その心中は、いかばかりでしょうか。

そして運命の日、6月1日深夜、光秀軍は亀山城から出陣。歴史を変える目的地「本能寺」に向かったのです。<光秀=推定54歳>■

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