朝ドラ【あんぱん】のモデル・やなせさんの生涯~知られざる遅咲き人生

2025年度前期のNHK連続テレビ小説『あんぱん』は、日本を代表する漫画家・やなせたかしさんと、その妻・小松暢さんの実話をもとにした感動の物語です。
やなせたかし(本名:柳瀬嵩)さんは、日本の子供向け漫画・アニメ業界に多大な影響を与えた漫画家です。彼の代表作『アンパンマン』は、1973年に絵本として誕生し、その後1988年に日本テレビでテレビアニメ化されました。『アンパンマン』は、「正義とは何か?」というテーマを根底に据え、自己犠牲と助け合いの精神を描いた作品として知られています。
『それいけ!アンパンマン』のシリーズは、「登場人物が最も多いアニメシリーズ」としてギネス世界記録に認定され、その数は2300体以上に及びます。その話数も、2025年3月時点で1600話以上が放送されています。漫画版の累計発行部数は8000万部を超え、日本国内のみならず海外でも愛されています。
そこで今回は、やなせさんの人生を追いながら、彼と妻・暢さんの強い絆を描く『あんぱん』ではしょうかいされない、やなせさんの本当の生涯を紐解きます。ドラマをより深く楽しむために、ぜひ最後までお読みください。
参考文献:「なんのために生まれてきたの?」やなせたかし著

第1章 波乱の幼年期の後、絵に夢中に
やなせさんは、1919年に東京府北豊島郡野川町(現在の東京都北区)で生まれました。実家は平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武家の一族、伊勢平氏の末裔という名家。父・秀雄さんは上海の日本郵船に勤めた後、講談社に入社し、家庭は比較的裕福でした。
父親は東京朝日新聞に転職すると1923年に上海に赴任。家族も一緒に中国に移住しました。その後、父親が南に約1000キロ離れた福建省の厦門(あもい)に転勤になったのを機に、やなせさんたち家族は東京に戻りました。
ところが、翌年、父親は厦門で急死。やなせさん5歳の時です。ともに過ごした時間は非常に短かかったのですが、やなさせさんのとって父・秀雄さんの存在は大きかったようです。
「父のDNAをいくらかもらって、そのDNAでやっと仕事をしているという気持ちが自分のなかにある」
大黒柱を失った家族は、柳瀬家の親戚に頼るため高知市に移り住むことになりました。
その後、やなせさんを取り巻く環境は、さらに変わり続けます。まもなく、母親が再婚。やなせさんは小児科医をしていた伯父に引き取られることに。何を隠そうこの伯父も、やなせさんの人生に大きな影響を与えたといいます。「本好きの叔父さんが購読していた多くの雑誌を目にしたことが、後々のためになった」と、やなせさんはその後、回想しています。
小中学校時代、「目立ちたくない性質だった」というやなせさん、両親がいないことも負担になっていました。そうしたなか、少年誌「少年倶楽部」に夢中になり、ひとりで絵を描いていることが多かったようです。
「つらいこともあったけど、絵を描いているときがうれしくて、絵を描くことで救われた」
中学時代になると、勉強はそっちのけで絵を描くことに没頭し、さまざまなコンテストに投稿したようです。そして1937年、絵描き好きが高じて東京高等工芸学校図案科(東京都港区:現千葉大学工学部デザイン学科)に進学しました。学生時代は、さまざまなことを吸収するため、銀座によく通っていたといいます。

東京高等工芸学校の制服(出展:wikipedia)
第2章 戦争体験で感じた思い
1939年に東京高等工芸学校を卒業すると、やなせさんは東京田辺製薬(現・田辺三菱製薬)に就職し宣伝部に配属されました。(21歳)しかし、次第に日中戦争が激しくなります。そして1941年、やなせさんも徴兵を受け、陸軍に入隊。その後、志願して士官候補生となり、試験にも合格して下士官になりました。
1943年になると、いよいよ中国大陸に赴きます。部隊では戦闘ではなく、暗号作成や解読などのほか、現地での宣伝活動に従事。自慢の絵を紙芝居に生かしたこともあるうようです。その任務柄、一度も戦闘に携わりませんでした。そして、1945年8月、上海近郊で終戦を迎えます。
戦争体験を通じてやなせさんは、アンパンマンにつながる正義に対する思いを強く持ちました。
「戦争には真の正義というものはない。しかもそれは(立場の違いで)逆転する。ならば逆転しない正義とはなにか。それはひもじい人を助けることなんです」
第3章 漫画で暮らせず挫折の日々
終戦後は、友人と紙くずを扱う会社に入社。そのときに拾った雑誌を手に取り、再び漫画家への夢を抱くようになったといいます。1946年、やなせさんは絵の技術を生かすため高知新聞社に入社。「月刊高知」の編集を担いながら、執筆、漫画なども担当しました。

その職場で出会ったのが、後に夫人となる小松暢さんです。翌年、彼女が上京するというので、やなせさんも会社を辞めて上京を決めました。(28歳)そして、まもなく暢さんと結婚。しかし、漫画家になることを決意したやなせさんですが、まだ二人の生活もままならず、他に職を得ることになりました。
それが大手百貨店の三越、宣伝部のデザイナーのポジションでした。同店の包装紙「華ひらく」の文字をデザインを担当。これはクリスマス限定の予定でしたが、評判が良かったのでそのまま長期にわたり定番になりました。
会社勤めの傍ら精力的に漫画を描き続けたやなせさん。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌に漫画を掲載し、そして漫画家グループの「独立漫画派」に参加。6年後、漫画の副業が三越で得る給料の3倍を超え、漫画家だけで生きていくことを決意したのです。(34歳)
第4章 広がる活動の場
晴れて正真正銘の漫画家となったやなせさんでしたが、今度は流行の変化に直面します。時代は1950年代後半、『鉄腕アトム』で有名な手塚治虫さんに代表されるようなストーリー性のある漫画家の人気が急上昇。その一方で、やなせさんたちが描いていた社会風刺を描く「大人漫画」の勢いが衰えました。
それでも、やなせさんは自分のジャンルにこだわりました。テレビ番組のまんが講師として3年間出演を続けたり、まんがの入門書を執筆したりするなど、「大人漫画」の普及に努めました。しかし、劣勢の状況には変わりはありませんでした。
「僕の本職は漫画家なんです。ですから、漫画をもうちょっと描きたいという思いがあって、その時期は、やはりつらかったです」
そんな中、やなせさんは様々な分野に活動の場を広げていきます。舞台美術やテレビ・ラジオの構成作家、そして作詞まで、さまざまな創作の現場に進出。当時を知る人は、やなせさんが漫画家だと知らなかった人も少なくなかったといいます。
その多才ぶりが功を奏し、脚光を浴びることが度々ありました。ひとつは、NHKの「みんなのうた」で放送され、学校などでよく歌われるようになった「手のひらを太陽に」です。これは、放送作家として参加していた教育テレビ(現テレビ朝日)の番組内の歌として、やなせさんが発案したものです。仕事や健康で悩んでいたときに思いついたそうです。(41歳)
この歌では、始まって2フレーズ目に「生きているから、かなしいんだ」という歌詞が出てきます。それについてやなせさんは・・・
「生きていなきゃ、悲しいという気持ちにになることもない。そして、悲しみがあるから喜びがある。悲喜交交(ひきこもごも)というでしょう。喜悲交交じゃない」
一方、地道な漫画制作も認められて、1967年には週刊朝日漫画賞を受賞。(48歳)また、一目置いていた手塚治虫さんから、劇場アニメ「千夜一夜物語」(1969年)の美術監督を依頼され、同作は期待通りのヒット作となりました。(50歳)
第5章 アンパンマン誕生
1960年代半ばには、「アンパンマン」につながる動きも始まりました。
やなせさんは、漫画家集団の展覧会の際に、ハローキティーで有名なサンリオの社長と知り合いに。会社のグラフィックデザインの仕事を経て、同社から初めての詩集を出版することになりました。この詩集「愛の歌」はサンリオの評判を高めるほど注目され、続けてやなせさんは絵本の作成にも着手します。そして短編集の中で初めて登場したのが、「アンパンマン」でした。しかし、このときの絵本は、どちらかというと大人向きで、アンパンマンも人間の姿をしていました。
1973年になると、やなせさんは本格的に絵本の世界へ。(54歳)漫画と詩、そして絵本を合体させた雑誌「詩とメルヘン」を立ち上げました。やなせさんは、創刊号の編集前記で「全く売れなければ1号だけでつぶれます。さて、どうなりますことか。あなたは買いますか」とあいさつ。(この本は2003年まで継続)

これに加え、漫画家の仲間とともに「漫画家の絵本の会」をスタートさせるなど、漫画としての活動も拡大させました。そして、同年、「アンパンマン」を子ども向けの絵本に改編。最初は「貧困に苦しむ人々の救済」というテーマが難解なため各方面から批判もありました。アンパンマンを8頭身から3頭身にするなど工夫もあり、徐々に子どもたちの間で人気が広まっていきました。
第6章 それいけ!アンパンマン
そして1988年、ついに絵本が「それいけ!アンパンマン」というタイトルでアニメとして日本テレビで放送が開始。(69歳)そのきっかけになったのは、幼稚園でボロボロになったアンパンパンの絵本でした。それを読んでいたのが、番組ディレクターの子供さんだったのです。
テーマソングの歌詞もやなせさんが作詞。最初はスポンサーが付くかどうかも心配されました。なにせ主人公が食べられてしまうのですから。
そうした制作者の心配をよそに、アニメは徐々に拡大放送されて人気番組に。現在も放送が続く長寿番組になり、国内外で愛され続けています。また、「こんなに描くつもりはなかった」というキャラクターの数は2300を超えています。

「アンパンマンも、自分が傷つくということですね。相手を助けるということを、ごく単純に、シンボリックにやっているわけで。それを受け止めたのが、幼い子供だった」
1993年、妻の暢さんが死去。二人には子供はいませんでしたが、「アンパンマンが私たちの子供です」とやなせさんは見舞い客に話していたといいます。
アンパンマンの人気で、アニメは各方面から賞を受賞。やなせさんの活動はますます活発になります。1996年には出身地、高知県香美市に、やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が会館。(77歳)アンパンマンが各地の自治体や、公営事業などのマスコットに採用されました。
そうしたアンパンマン関連の仕事の一方、自身の本髄でもある大人漫画の普及に努めました。たとえば甲子園野球にちなんで、一コマ漫画の大会「まんが甲子園」を立ち上げ、審査員を担当。また2000年には日本漫画家協会の理事長に就任して、ストーリー漫画との格差改善に努めました。(81歳)
第7章 命尽きるまで「人に元気を」
長年、さまざまな活動を精力的に進めてきたやなせさん。しかし、60歳代の終わりごろから様々な病気に悩まされていました。腎臓結石、白内障から心臓病。さらにはヘルニアに度重なる腸閉塞など。心臓にはペースメーカーも入りました。それでも自身を「オイドル」(老いたアイドル)と評して活動を続けました。
しかし、2011年、目の不調のため漫画家引退を決意。(92歳)自ら生前葬を営もうとしていたとき、あの東日本大震災が発生。やなせさんが再び脚光を浴びます。「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソング扱いとなったり、被災地から「アンマンマンで笑顔を取り戻した」などと伝えられたり。
「東日本に震災が起こって、引退だなんて言ってられなくなったんです」
やなせさんは、再び活動再開させ、被災地のためにアンパンマンのポスターを制作したりCDを制作するなどしたのです。

翌年、日本漫画家協会の理事長を辞任しましたが、ユニークな姿でテレビやアニメ映画の舞台挨拶に登場するなど、そのハツラツぶりは健在でした。とくにそのおしゃれぶりは評判に。「派手なものを着る時というのは一種の気力が要るんです。気持ちがしゃんとしないと着られない」とやなせさん。おしゃれは、病気に負けないようなするためだったのです。
しかし、2013年8月に体調を崩して入院すると、10月13日に様態が急変。心不全のため、94歳で永眠となったのです。翌年2月、やなせさんの誕生日に、偲ぶ会「ありがとう!やなせたかし先生 95歳おめでとう!!」が開かれた。
波乱万丈の人生を歩んだやなせたかしさん。亡くなる一年前、こんな言葉を残しました。
「どんな時代も希望はある。それを信じて生きていく」
*
NHKの連続テレビ小説『あんぱん』では、モデルとなったやなせさんと妻・暢さんが懸命に生きた愛の物語が描かれます。二人の生きた時代、支え合った日々、そしてやなせさんが遺したものに思いを馳せながら、ぜひ『あんぱん』をご覧ください。■
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