​分かりやすい【織田信長】の生涯③~未完に終わった野望の総まとめ

​分かりやすい【織田信長】の生涯③~未完に終わった野望の総まとめ

​1568年、足利義昭を伴って上洛を果たした信長。その後、幾多の困難を乗り越え、天下(当時は畿内のこと)をほぼ手中に納めました。さらなる勢力範囲の東西に伸ばしつつある、1582年。家臣・光秀の謀反によって合えなく本能寺で討たれました。

なぜ、田舎武将が、一代で天下を取ることができたのか?

また、なぜ、その信長が一晩であっさり討たれたのか?

この二つの疑問について考えるため、焦点を当てるのは上洛後から本能寺の変で倒れる信長の晩年。この14年間を信長を分かりやすく理解するために、彼を企業の経営者に置き換えて、その天下取り戦略と没落の要因を紹介したいと思います。

彼の晩年を俯瞰できれば、あなたの自己目標の実現のための手がかりを掴めるかもしれません。

【織田信長】の生涯②~天下取りへの実地訓練・青年期

なぜ田舎武将が天下を取ることができたのか?

田舎武将の信長がぶち上げあたマニフェスト、「天下布武」。最近では武力で天下を収めるというより、「畿内を収め、幕府を再興する」という解釈が通説となっています。

単に天下を支配する統領としてではなく、権威ある武家による日本の統治を目指していた信長。自分が支援する義昭を将軍に仕立てはしたものの、畿内は一向に安定しないばかりか、四方八方から敵対勢力に攻め込まれます。

そうした困難に直面しても前進を続けられた秘訣は、次の3つです。

1.能力主義の徹底

2.旧権力の活用

3.支配の分担制

これらの3つのポイントを抑えながら、晩年の信長の足跡をステージ別に振り返ってみましょう。

①信長の都支配術

足利義昭を15代将軍に押し上げた信長。しかし、京の実質的な政治は手中に納めました。この二人を現代ビジネス風に置き換えると、次のようになるでしょうか。

足利義昭(左)と織田信長 (Wikipediaより)

義昭=落ちぶれた老舗企業の跡継ぎ

信長=地方の新興企業の剛腕社長

つまり織田商会は、老舗企業・足利商事を経営面を支える代わりに、そのブランド力を利用して都での実質的な営業権を奪ったのです。

当初信長は、将軍に就任した義昭の権威を敬い、その下で幕府の復興を目指すふりをしていました。その一方で木下秀吉(後の豊臣秀吉)、そして当時まだ幕臣だった明智光秀を京の守護として配置し、現実的なプランBを進めていました。

つまり、<旧権力の活用>していたのです。

京の担当として、上記の二人のほかに重臣の丹羽長秀と中川重政がいましたが、若き才能・秀吉と中途採用・光秀をこの最重要ポストに抜擢していました。

<能力主義>の信長の真骨頂です。

その後、信長が一旦岐阜に戻ると、そのすきを狙って、長年、京を実行支配していた三好三人衆が政権奪取を狙って義昭を襲撃。これを光秀らがしのぐと、信長がすぐさま再び京都に駆けつけて、三好三人衆を殲滅しました。

一見、これは信長の失態に見えますが、結果だけみると旧権力・三好一派のエゴをうまく利用し、義昭の傀儡化を加速させる策略にも見えます。実際、これ以降、信長はますます幕府に対して厳しい要求を突きつけるようになりました。

老舗を支えた見返りに、京都支店でまんまと市場でのシェアを拡大させることができた。用が済んだ老舗は、さっさと骨抜きにしてやった

②人生二度目の絶体絶命

出る釘は討たれる。京を事実上支配した信長を面白く思っていないのが地方の有力武将たちです。信長は、幕府の下部という名目で、待つことなく先制攻撃をかけます。

まずは越前(石川県)の朝倉義景です。朝倉家は、以前義昭が身を寄せるほど、足利幕府とはつながりがある由緒ある家柄です。また、信長の本拠地・岐阜から京への動線を北から臨む北に位置して、まず潰す必要がありました。

1570年4月、徳川軍を従えて越前に攻め入った信長ですが、ここで想定外の窮地に追い込まれます。織田家と同盟関係にあった浅井長政の裏切りです。

これは<損得を重視>する信長の誤算でした。

北の朝倉、南の浅井に挟まれた織田勢は、あわてて退却。信長はわずかな兵と共に、命からがら京に逃げ帰りました。いわゆる「金ヶ崎の危地」です。信長にとっては、桶狭間の戦い以来となる絶対絶命の窮地でした。

つまり、織田商会は、企業同士の古きつながりを軽視して、ライバル企業を潰しにかかった。しかし、手を結んだはずの中堅企業の寝返りを受けて攻守逆転。一気に売り上げを減らす結果となったのです。

しかし、2か月後、信長は体制を整えて再び出陣。浅井・朝倉の連合軍を「姉川の戦い」で破り、敗戦をチャラにしました。

勢いに乗じて朝倉商会を潰そうと思ったが、仲間に引き入れたはずの浅井商店にいっぱい食わされた。業界の腐れ縁とやらを、甘く見ていた。

③窮地を脱し、大魔王となる

浅井・朝倉に勝利しながらも、信長は密かに反旗を翻した義昭に賛同する勢力に苦しめられていきます。

西では、三好三人衆が石山本願寺の加勢を受けて京に迫り、これを信長自身が出陣して抑えようとします。

東では、浅井・朝倉軍が再び南下して、琵琶湖西岸で織田家臣軍と対決。弟の信治が討ち死にする敗戦。

琵琶湖の南では、信長が上洛した際に破った六角氏が一向門徒(本願寺)とともに挙兵して、岐阜への動線を遮断。

地元尾張では、伊勢長島の本願寺門徒が一向一揆を起こし、小木江城で弟・信興が討死。

さらに再び兵をあげた浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺に立てこもって信長をすきを狙います。信長は朝廷と義昭を動かして講和に持ち込むしかありませんでした。

浅井長政(左)と朝倉義景 (Wikipediaより)

ここで信長が各地で直面したのは、仏教勢力との対立です。それまで武将は、武将同士、まれに朝廷と対立しました。しかし、この時の信長ほど、仏教勢力からの反駁を受けた武将はいません。それは、

宗教に対しても容赦ない姿勢を見せたからです。

つまり、織田商会から織田商事と会社を拡大させた信長社長は、市場の仕組み自体を変える大きな改革を推し進め、業界全体どころか、お役所(寺社勢力)と対立することになったのです。

そしてこの困難を乗り越えるために、信長は大きな変身を遂げます。それは、

神仏をも恐れぬ「大魔王」です。

その象徴的な出来事が1571年9月に起きた「比叡山の焼き討ち」です。比叡山の延暦寺と言えば、日本仏教の母体とも言える聖域。当時、延暦寺に腐敗が蔓延していたとして、信長は寺院を人々もろとも容赦なく焼き払いました。

比叡山

この比叡山の焼き討ちは、信長の強権性を内外に示し、各地の武将の服従を促しましたが、その一方で、神仏をも恐れぬ不届きものとして敵対する勢力に大儀を与えてしまいました。

ライバル企業の中で潰されそうになったが、業界の古臭いタブーを討ち壊してやった。これからも、自分に自信をもって突っ走るぞ。

④最大の脅威が消え、包囲網の撃破へ

傲慢な信長を倒したいと願う義昭が期待していたのが、甲斐(山梨県)の強豪・武田信玄です。

信長と同盟関係にあった「山」が動くきっかけになった理由が、比叡山の焼き討ちと言われています。神仏をないがしろにした信長の行為は、信玄を決断させてしまったのです。

武田信玄

武田氏は北の上杉氏、南の北条氏と長年にわたる攻防を展開してきましたが、1569年8月に和陸を結び、2万5千の兵を京に向けました。

東の抑えになっていた三河の徳川勢も、まだまだ力は弱く、武田軍の敵ではありません。1573年2月には、武田軍は尾張近く三河西部まで迫りました。

絶体絶命の織田信長。しかし、ここで再び強運ぶりを発揮します。武田軍の突然の撤退したのです。

原因は信玄の病の悪化。

そして、信長の最大の脅威は甲斐に戻ることなく、あっさりこの世を去りました。その報を聞いた信長は、笑いが止まらなかったのではないでしょうか。

武田商事の社長が亡くなってくれたおかげで、会社への脅威もなくなった。直接対決をぎりぎりまで避けた甲斐!があった。これで市場は支配したのも同然。さて、裏切りものから料理するか。

信玄がなくなり、武田勢が甲斐にひくと、信長は息を吹き返したように、包囲する各勢力を潰しにかかります。主な標的は以下の4勢力です。

①足利義昭 1573年4月、信長に追い詰めあられて宇治槙島城に下ると、信長勢に向かって兵を挙げた。織田勢は猛攻でこれを殲滅。義昭は追放の身となり、

幕府は事実上崩壊しました。

②浅井・朝倉勢 同年8月、信長はこの連合軍とまたまた対決。今回は圧倒的な兵力で織田軍の勝利。そのまま、朝倉義景を追走して越前で自害に追い込むと、返す刀で浅井長政の小谷城を攻め、浅井家を滅亡させました。

③武田勢 1575年5月、織田・徳川軍は、信玄を継いだ武田勝頼と三河の長篠で激突。いわゆる「長篠の戦い」です。無敵と評された武田の騎馬隊に対して、織田・徳川軍は3000丁(一説には1000丁)の鉄砲で攻撃。武田軍はあえなく敗れ、勝頼は東へ奔走した。

長篠合戦図屏風(部分・Wikipediaより)

④石山本願寺 各地の一向一揆を先導するこの宗教勢力は、信長にとって制圧が絶対必要な存在でした。長篠の合戦の翌年、一応和睦となっていましたが、勢いにのった信長は本願寺攻めを決行。しかし、松永久秀と荒木村重の謀反もあり手間取ったが、1580年3月に本願寺は信長の手に落ちました

石山本願寺の住職・顕如 (Wikipediaより)

こうして信長は、畿内を超えて日本のおよそ三分の1を支配下に置きました。信玄が亡くなってから7年で成し遂げた、まれにみる偉業と言えるでしょう。

武田商事の若造は、はやっぱり手ごわかった。「鉄砲隊」という新しいスタイルを徹底していなかったら、やばかったかも。あとの連中は特に問題なし。てこずらせてくれた浅井・朝倉商店も潰してやったぜ。

⑤方面軍制を強いた途端に!

当時、日本の中心は今以上に京を中心とした畿内一帯でした。ところが包囲網を破ったために、「信長の天下」は拡大。そして、信長は本当の意味での「全国制覇」に取り掛かります。

これは日本史上なかった試みです。(古代の話は別)そのために、信長が導入したのが、

各地域を部将に任せる<分担制>です。

北陸には柴田勝家。東には滝川一益、そして西には羽柴秀吉。京の近隣には、明智光秀を配置しました。さらにこれらの部将の与力(附属の武将)に国々を担当させました。

「本能寺の変」の時の主要部将

一方このころ、信長は昔から支えてくれた古株の家臣、佐久間信盛と林久秀をさっさと追放。その一方で、最初に城持ち大名にさせた中途採用の光秀を最重要となる京と隣接する琵琶湖西岸、そして丹波を任せました。まさに、徹底した能力主義を続けました。

しかし、そうした自分の判断力への過信が、信長をあの悲劇へ導きました。

もちろん光秀は野球でたとえるなら三拍子そろっています。交渉ごとをやらせて良し、戦をやらせて良し、さらに学識もあります。現代で言えば中途採用のスーパー社員です。

しかし、彼は一介の落ち武者から、朝倉義景、そして足利義昭と仕える相手を損得で変えてきた策士であり、織田商事に対する忠誠心に欠けていたかもしれません。

1582年6月2日、少なくとも光秀より忠誠心のある家臣たちは遠方にいました。(ただ、一説に500人ほどを擁する嫡男・信忠は近くに滞在していた)

信長は、運命の時を迎えます。その日の未明、毛利攻めに向かうはずのに明智勢1万3000がわずか十数名しかいない本能寺に向けて進軍。そして午前6時ごろ、約2000の兵が寺へ襲撃をかけました。光秀が敵であることを知った信長は一言、言いました。

「是非もない(しかたがない)」。

業界を支配する勢いで急成長した織田商事。他の役員が遠方の支社で奮闘中の間に、頭脳明晰の明智専務の速攻によってその座を奪われたのでした。

信賞必罰のもと、報酬も十分与えてきた明智専務に、社長の座を突然奪われるのは、自分の不徳といたするところ。潔く、受け入れるしかないわい。さらば。

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