鎌倉殿の13人【源頼朝】の実像~弟・義経殺しの真相とは?

鎌倉殿の13人【源頼朝】の実像~弟・義経殺しの真相とは?

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。主人公は源頼朝の正室・政子の弟、北条義時(小栗旬)。彼が将軍を支えながら鎌倉幕府を掌握していく姿を描きます。

つまり物語は幕府の中の権力闘争が中心になるのですが、やはり前半で注目される人物は、

第一代将軍・源頼朝(演:大泉洋)です。

この人物、日本史のなかでは織田信長や徳川家康とならぶ重要人物ですが、いかんせん一般的に人気があるとは言えません。その主な理由は、

献身的な弟・義経(演:菅田将輝)を殺した冷徹な兄ということ。

兄の名を受けて見事に平家を倒した弟を、用が済んだら殺してしまった兄。これだけ聞けば、「人でなし」と言われても仕方ありません。しかし、

本当に頼朝は“人でなし”だったのか?

当時の歴史を少し紐解くと、実はそうでもなかったということが分かります。だとしたら、「なぜ義経を死に追いやったのか」という疑問が深まります。

そこで今回は、頼朝の流刑の身から、源氏の棟梁として返り咲くまでの経緯を振り返りながら、その疑問を解き明かします。これを一読すれば、「鎌倉殿の13人」をより楽しく見られるでしょう。

★人物には「鎌倉殿の13人」で演じる俳優名を記しています。

人の情けで斬首を免れた頼朝少年

源頼朝が生まれたのは1147年。父は当時、京で勢いがあった源氏の武将、源義朝。母親は熱田神宮(名古屋市)の大宮司、藤原季範の娘です。

義朝には兄弟が少なくとも8人いました。頼朝は三男だったのですが、嫡男とされました。なぜなのか?

その理由は彼の血統です。

母が由緒ある神社の血筋だったことに加え、祖父・季範は京の朝廷内でのつながりを多く持っていました。

幼年期から朝廷内で役職に就いたり、13歳で初陣を飾ったり、順調に出世の道を歩まされていた頼朝。しかし、人生を揺るがす出来事が起こります。

1159年の平治の乱です。

義朝は、ライバルの平清盛(演:松平健)との戦に敗れて都落ちの末、殺害されてしまいます。その父に合流しようとした頼朝は、途中で捉えられて清盛の元へ。

まだ少年だった頼朝。それでも義朝の血を引く男子ですから、当然「殺してしまえ」ということになります。

が、命を救われます。

その理由は、清盛の継母・池禅尼による助命嘆願だったとされています。「この子(頼朝)は、私の子供に似ている」。清盛にとって父・平忠盛の正室、つまり母にあたる彼女の願いを無視することが出来なかったのでしょう。

この時、死を覚悟したであろう頼朝は、「人の情の深さ」に感謝したことでしょう。(潔く殺してほしかったかもしれせんが・・・)

流刑の地でも人の情に触れる

京から約400キロ離れた東国へ流刑となった頼朝。しかし、そこでも人の情によって命を救われることになります。

頼朝が流されたのは久須美荘(①)、いまの静岡県伊東市でした。当時の領主は、京にも繋がりもあった平氏家人の工藤祐継でしたが、間もなく病死して頼朝の監視の役は異母弟の伊東祐親(演:浅野和之)になりました。(ちなみに、祐継は今生天皇の直系でもあります)

ところが、頼朝は祐親の娘(演:新垣結衣)との間に子を儲けてしまいます

それは千鶴御前という男の子。しかし、平家の疑念を恐れた祐親に殺されてしまいます。頼朝も危なかったのですが、それを救ったのは、

祐親の息子、祐清(演:竹財輝之助)でした。

なぜなのか。それは祐清が頼朝に献身的だった乳母・比企尼(演:草笛光子)の婿になっていたからです。さらに祐親は、亡くなった祐継の所領をその息子・工藤祐経(演:坪倉由幸)から奪うなど、父親のやり方に反感を抱いていたとも考えられます。

頼朝は再び、縁者に命を救われたのです。

この時、頼朝は29歳になっていました。身から出た錆で命が危険に晒されましたが、また同じ轍をまた踏んでしまいます。

北条政子との運命的な結婚

祐親から逃げた頼朝を引き受けたのが祐清の縁者。祐清が元服するときの烏帽子親だった

伊豆国領主・北条時政(演:坂東彌十郎)です。

時政は、桓武平氏高望流の平直方の子孫とされていますが、実は出自がはっきりしていない豪族の血筋とも言われています。

頼朝は蛭ヶ小島付近(②)に軟禁。ところが、あっという間にまた“危険な女性”と恋に落ちます。それは、

時政の娘、政子(演:小池栄子)

源頼朝と北条政子 (蛭ヶ小島公園

平家の命のもと監視をすることになった頼朝と自分の長女との恋愛関係。平家の反応を心配して、祐親のように反対するはずの時政でしたが、

なんと二人の関係を認めます。

政子の意思が固かったとも言われますが、実は当地の行政事情があったようです。そのころ時政は、地域の警備を担当する在庁官人でした。一方、政治を担当していたのがは頼朝の従兄、木曽の源義仲(演:青木崇高)を支援していた源頼政(演:品川徹)でした。領地を平穏におさめるには、二人の結束が必要だったたはずです。

これに加えて、深い因縁があります。

頼政は平治の乱で頼朝の父・義朝を裏切っています。その償いの意味もあったかもしれません。その意向が時政に働き、頼朝を婿として受け入れたのではないかと、考えられています。

こういった人の情けの重なりを、頼朝も当然理解していたでしょう。

乳母の深い思いやり

京の縁者の心づかいも、“罪人”であった頼朝を長らく支えています。その最重要人物が、すでに紹介した

頼朝の乳母、比丘尼です。

彼女は頼朝の幼い頃、傍に寄り添い実母に代わって育てた人物です。平治の乱で源氏が敗れると、夫・比企掃部允ともに領地である武蔵国比企郡(埼玉県の中心部)に下り、そこから20年に渡って頼朝の流刑時代を支えました。

その支援体制は、親族や家来を含めて実にきめ細かく、巧みなものでした。

京から東国の田舎へ押し込められた頼朝にとって、唯一の親戚とも言える比企尼一族の存在は縁者ということだけでなく、

心の支えであったはずです

しかし、この関係が、頼朝とそして息子たちに不幸をもたらしますが、それはまた別の機会にご紹介します。

平氏追討へ決起も敗亡す

頼朝が遠方で慎みやかに生活している間に、京では平家の勢いが拡大し、遂に朝廷を制圧。後白河法皇(演:西田敏行)を幽閉するまでに至りました。清盛の娘・徳子の婿である高倉天皇を退位させ、孫である皇子を安徳天皇としました。これに反旗を翻したのが、

後白河上皇の皇子、以仁王(演:木村昴)。

以仁王(出典:Wikipedia)

1180年4月、自ら平家打倒を画策すると同時に諸国の武将に同調を呼びかけ、その知らせは頼朝の元にも届きました。頼政が以仁王と京で共闘していたため、時政と頼朝は参戦するか悩んだことでしょう。

しかし、以仁王の平家打倒計画は潰され、頼政も追い詰められて自害しました。伊豆国周辺の政治は、頼政に代わり平氏傍流の平兼隆が担うことになり、頼朝と時政は微妙な立場に立たされます。

そして、伊豆国の頼朝に危機が迫ります。

1180年6月、京から平氏の襲来予兆の知らせを受けて、頼朝は遂に挙兵の決断をします。背景には、伊豆だけではなく相模・房総諸国で高まる平氏の統制強化に対する不満に加え、幽閉された後白河上皇の密命もあったと言われます。

しかし、緒戦で頼朝は敗れます。

同年8月、頼朝は時政たちを伴って挙兵。最初に地元で平兼隆を倒した余生をかって小田原辺りに進軍。しかし、味方の三浦義澄(演:佐藤B作)の500騎と合流できず、僅か300騎で約10倍の伊東祐親+大庭景親(演:國村隼)勢と戦って敗北。この時、時政の嫡男・北条宗時(演:片岡愛之助)が討死してしまいます。(石橋山の戦い)

頼朝は命からがら、海路、房総半島の猟島(安房)へ逃げ落ちました。

(注:東京湾の輪郭は現在のもの)

先祖が残した遺産で復活

頼朝は海上で三浦勢と合流して半島の南端に上陸。体制を整えると、10月には再び出陣。そして目指したのは、

鎌倉です。しかし、なぜなのか?

それはこれらの地が、先祖・源頼義がかつて統治した場所であったことが大きな理由とされています。頼義は河内源氏の2代目棟梁(頼朝は7代目)。1028年に当地を平直方から譲り受け、源氏東国の拠点としたのです。

鎌倉への途上で、平氏側に付いていた武将たちも、次々に頼朝に従います。ここで発揮されたのは、

頼朝の交渉力です。

参入した武将の中には、石橋山の戦いで敵となった者いましたが、強まる平氏の脅威を示すことで遺恨を沈めることに成功したようです。

そして同月6日、頼朝は遂に鎌倉に入りました。

さらに20日には、頼朝鎮圧のため進軍してきた平維盛と富士川で対決。(富士川の戦い)これを打ち破って、平氏の勢いを完全に止めました。この時、頼朝のもとに馳せ参じたのが、

21歳の末弟・源義経です。

平家追討を果たした弟・義経だったが

頼朝が鎌倉で統治体制を固めている間、先に京の平家に討って出たのは、

頼朝の従兄・源義仲。

1183年、義仲は維盛を打ち破り、上洛を果たします。しかし、その軍勢は非常に粗暴で都に混乱をもたらし、朝廷を悩ましました。さらに平家を討ちきれずにいました。

業を煮やした後白河法皇は頼朝に助けを求めます。それを知った義仲は、遂に後白河法皇を幽閉して、一気に政権奪取を試みます。

朝敵となった義仲の討伐を頼朝は決意。その命を受けて、京に向かったのは義経。そのあとに、大軍を率いた弟の範頼でした。

源義経

義経たちはまず1184年1月、義仲を成敗。その語、都落ちした平家を追い立てるように西に攻め続け、翌年3月、壇ノ浦の戦いで平家を破り、これを滅亡させました。同年5月、義経は京を経て鎌倉に向かいますが・・・

頼朝は義経を鎌倉に入れず冷遇。

その後、仕方なく京に戻った義経に対し、頼朝はその所領などを没収。義経は頼朝の命令に反発して両者の対立は決定的になりました。

紆余曲折を経て頼朝は遂に義経の追討を決断。義経も反抗を試みますが、組する武士たちが次第に減って、結局は奥州の藤原氏を頼り京から隠密裏に北上。結局、頼朝の命に従った藤原泰衡に追い詰められ、自害しました。

なぜ、弟を殺すことになったのか

頼朝は清盛の継母・地禅尼に命を救われてから、縁者たち、そして流刑先の人々に守られました。そして、頼朝もその恩に応えるように側近として傍に置いて徴用し、共に源氏を再興したのです。

その途上に現れたのが、弟・義経でした。

一般に伝えれる話では、義経は最初から頼朝を兄として敬愛し、献身的な姿勢だったと伝えられます。

しかし、当時の兄弟や親子の関係は、現代とは違っていました。

武将は一夫多妻制で、兄弟にとって母が違うことはごく普通です。また正室と側室の子供では扱いが違いました。さらに嫡男とその他の兄弟は、上下の隔たりが強くあったようです。

(出典:Wikipedia)

また頼朝と義経は、成人後に初対面しており、子供時代を一緒に生活したこともありません。ですから、義経はともかく、頼朝にとっては義経には親近感もさほどなかったでしょう。

こういう二人の関係を前提に、頼朝が義経を抹殺せざるを得なかった主な理由を考えてみます。

①頼朝の許しなく朝廷から官位を受けた

壇ノ浦で平家を滅亡した後、義経はその功績によって朝廷から官位を授かりました。一般に棟梁の許しもなく、そのような官位を受けることはできません。

そのため、頼朝は、官位を得た場合は「東国に帰らず京に留まれ」としました。が、義経はこれにも反抗して、鎌倉の頼朝に会いに行きます。結局、二人は和解せず義経は京へ戻るのですが、「兄は自分を誤解している」と感想を漏らしたとも言います。

義経は他にも独断で行った軍事行動もあり、こういった勝手なふるまいを許しては、棟梁として大勢の御家人に示しが付かないわけです。

②義経が、権力掌握を脅かす可能性があった

平家を殲滅した頼朝にとって次の相手は朝廷でした。平家に政治の主導権を握られていた後白河法皇は、内乱を機に権力の奪還を狙っていたのは明白です。

そこで目を付けたのが義経です。若武者であるのを利用して、官位の他、様々な任務を与えて子飼いの武将にしようとします。

頼朝にとっては気が気ではありません。やっと全国の武家の棟梁までこぎつけたのに、朝廷の思惑を理解しない義経の勢力が拡大したらやっかいです。ですから、

義経が大きな脅威になる前に、摘み取っておきたかった。

戦乱の世では、こういった例がたびたび起きています。特に戦国時代には多発していて、弟を殺した織田信長、父親を殺した武田信玄、然りです。

ここまで頼朝の足跡をつぶさに見てきました。しかし、実際の頼朝の心中は図りしれません。そういった意味で、「鎌倉殿の13人」で頼朝を演ずる大泉洋さんが義経との関係をどう演ずるか、注目したいと思います。■