朝ドラは実話か?カムカムおじさん【平川唯一】英語講師になったいきさつは?

朝ドラは実話か?カムカムおじさん【平川唯一】英語講師になったいきさつは?

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NHKの2021年度下期の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」。ストーリーは完全オリジナルですが、主要キャラクターの中で、唯一、実在の人物が登場します。それは、戦後、ラジオの英語講座で大人気だったアナウンサー、

“カムカムおじさん”こと、平川唯一さん。

平川さんは、戦後の英会話ブームの火付け役として有名ですが、そこに至る道のりが非常にユニーク。「カムカム英語に導かれた」と本人が回想するように、ある種、宿命さえ感じさせます。

その舞台になったのはアメリカ。

平川さんが少年だったころ、日本はアメリカ大陸へ移民が盛んに行われた時期でもあります。平川さんは、思わぬ理由で引き寄せられたアメリカで多感な少年~青年時代を送りました。突然渡った異国の地。何かが起こるのも当然と言えば、当然です。

▼連続テレビ小説 カムカムエヴリバディ Part1 (1) (NHKドラマ・ガイド) 

そこで今回は、カムカムおじさん誕生の源泉になった若き日の平川さんを、当時のアメリカの世相とともにご紹介します。これで、さだまさしさん演ずる平川さんへの思いが深まれば幸いです。(以下、敬称略)

運命のカギだった父親

平川唯一が生まれたのは、1902年(明治35年)2月13日です。

昭和天皇より一年遅い。同年に生まれた人には、作家の横溝正史。外国人では、飛行機による大西洋横断に初めて成功したチャールズ・リンドバーグがいます。

生まれた場所は、岡山県津川村(現在の高梁市)。岡山市から北西の30キロ余り入った内陸の農村です。

高梁市 (出展:ZENRIN)

唯一は、農家の次男でした。

1916年(大正5年)、尋常小学校高等科を卒業。現在の中学2年生の14歳です。その後は、家業を一生懸命手伝いました。朝から晩まで外で農作業。夜も草鞋など夜なべ作業に費やしたといいます。ですので、

英語とは全く無縁の生活です。

そんな唯一に、突然アメリカに渡る事態が発生します。きっかけになったのが、

当時、離れて暮らしていた父親です。

唯一の父親は、唯一が農作業を始めるころには、家にはいませんでした。どこにいたかといういうと、アメリカだったのです。

当時、日本は不景気で、特に農家の暮らしは苦しいものでした。そこで、新天地に希望をつなごうとする人々が出てきます。アメリカへの移民です。渡航先は最初、ハワイが主でしたが、その後、アメリカ本土に渡るようになりました。特に、広島県、岡山県、和歌山県、そして沖縄県からの移民が多かったようです。

唯一の父親もそんな出稼ぎの一人でした。理由は、生活苦といっても米相場での借金。ただ、渡航にも費用も掛かります。父親は一度帰ってきましたが、ずっとアメリカに行ったきりになっていたそうです。

「いいかげん戻ってきてほしい」

唯一は、一大決心で父親に手紙を書きました。「戻ってきてくれないなら、こちらから迎えに行く」。すると父親から思わぬ返事がありました。

「来たければ、旅費を送るから、来ればよい」

手紙が届いたときには躊躇した唯一。それでも結局、1918年(大正7年)、兄と二人でアメリカに父親に迎えに行くことになったのです。唯一は、16歳でした。

ミイラ捕りがミイラに

アメリカに父を訪ねた唯一。そこはオレゴン州ポートランドだったと思われます。しかし、父親をすぐには連れて帰ることができず、唯一はその場に住むことになります。つまり、「ミイラ取りがミイラになった」というわけです。

父親に勧められたのでしょう。唯一は、父親と一緒に線路工夫となって働くことのなりました。

1920年代のオレゴン州での線路敷設工事の様子 (出典:Wikimedia Commons)

1860年代以降、アメリカでは鉄道開発が盛んでした。西海岸で建設が始まってしばらくは、中国人(華僑)が雇われていましたが、白人労働者の反発を買い、排斥される立場に。代替として日本人が多く雇用されるようになりました。

唯一は、線路敷設現場で働きながら、地道に父親を説得を続けました。その一方で、決められたことをコツコツ行う気質に変化が生まれたようです。

どうせ異国に来たのだから、何かに挑戦してみよう。

英語修行のきっかけ

唯一は半年で線路工夫をやめて、シアトルにある日系商店の店員になりました。この頃、父親と一緒にこの地に移り住んだようです。なぜなら、父親は後年、日本で商売をして成功を収めているからです。多分、シアトルでビジネスを学んだのでしょう。

日系商店とは、当時有名だった古屋商店です。

現地の日系人コミュニティの間でリーダー的存在だった古屋政次郎が経営する店。シアトルのアジア系移民が住む街にありました。

この街はいまもインターナショナル地区と呼ばれ、日系人の他に中国系住民も多く住んでいます。戦後は、あのカンフー映画のスター、ブルース・リーも、渡米した1958年ごろ、このあたりの中華料理店で住み込みの皿洗いをしていました。

1919年当時のインターナショナル地区 (出典:Wikimedia Commons)

しかし、日系人の店といっても、時々アメリカ人がやってきたり、日本人も英語を話したりします。唯一は、英語の必要性を痛感し、

英語の勉強を始めることにしました。

最初は仕事の合間に夜学校に通いましたが、一向に上達しません。多分、周りの生徒が英語の下手な移民ばかりだったからでしょう。

これではだめだと思った唯一。本格的な手段にでます。それが、アメリカ人の家庭の書生になることでした。使用人として働く代わりに、住み込むというものです。この時、家主の提案で、アメリカ名「JOE(ジョー)」を拝命しました。

充実の学校時代

唯一が渡米した1年後、遂に父親は折れて帰国することになりました。しかし、唯一は、一緒に帰るどころか、

アメリカに20年弱、近く住むことに。

唯一は夜学校をやめ、1919年(大正8年)、地元の小学校に入学。当時、唯一は17歳の少年。6歳の子供の中で勉強するとは、徹底的に基礎から英語を学びなおそうする決意の表れでしょうか。

周りの子供たちは仲良くしてくれ、担任の先生は放課後は居残って毎日1時間の英語の補習授業をしてくれたそうです。

彼は非情にラッキーだったと言えるでしょう。なぜなら、当時、西海岸では、日本人に対する排斥運動が高まり、農地の購入や借入を禁じた法律まで作られました。背景には、日系人に仕事を奪われることへの強い不満があったのでしょう。

一般に日系人が厳しい状況にあったのにも関わらず、「周りのアメリカ人は子供と大人を問わずとても親切だった」と唯一は帰国後、振り返っています。

小学校は3年の余りで8年の過程を終了。そのあとは、地元のブロードウェイ・ハイスクールに入学。周りの同級生は、自分よりも5歳以上も若いのに、既に大人びて堂々として、唯一は身の引き締まる思いだったようです。

1919年のブロードウェイ高校 (出典:Wikimedia Commons)

高校卒業後、1926年(大正15年)10月、24歳で地元の州立ワシントン大学に入学。自分はあまり社交的ではないことから、尊敬していたトーマス・エジソンに因んで物理を専攻したといいます。(実は、ブルース・リーも同大学に入学しています。彼は哲学科でした)

1920年ごろのワシントン大学 (出典:Wikipedia)

しかし、最初こそ優秀な成績でしたが、徐々に成績がガタ落ちに。「これでは、お先が危うい」と思った唯一は、進路の大転換を決心します。

専攻を演劇科に変更したのです。

本人も思きった方向転換したと後日語っていますが、これが日本でのラジオ出演に大いに生かされることになります。

演劇科に移ってから一番メリットだったのが、標準英語の訓練だったようです。訛りのある発音を徹底的に強制されたに違いありません。そのお陰か、学生が近くの小劇場で公演していた評判の戯曲「ペール・ギュント」(ヘンリック・イプセン作)で、2か月も舞台に立ち続けました。

ハリウッドでの活躍

1931年(昭和6年)、演劇科を首席で卒業した唯一。すでに29歳になっていました。そしてめざしたのが、ハリウッドがあるロサンゼルス。当地では、プロの役者として芝居や映画に出演していました。

このころ、ハリウッドは日系人俳優が活躍していました。そのきっかけを作ったのが早川雪州。1910年代初頭に、東洋のミステリアな風況で白人のご婦人方を虜にしました。

唯一が出演した映画には、プッチーニの歌劇を映画化した「マダム・バタフライ」「ダイアモンド島の謎」(1935)があったようです。

「ダイアモンド島の謎」出典:IMDb

この頃、プライベートでも“出来事”が起こっていました。

ロサンゼルスに移り住んだ後、唯一は教会の副牧師になっています。出身は岡山の田舎なので、キリスト教徒になったのは渡米後でしょう。

教会で出会ったのが、同じ日本からの留学生の瀧田ヨネ。1935年(昭和10年)に結婚して、翌年、長男の壽美雄が生まれました。ところが、留学生のヨネのビザが更新できず、1937年に平川一家は、やむを得ずそろって帰国することになったのです。

日本で“カムカムおじさん”誕生

帰国1か月後、NHKの国際放送局に入社。英語力と俳優経験を生かして、海外向けのニュースを読むチーフアナウンサーに。1941年(昭和16年)に戦争が本格化しても、そそまま唯一は海外向けに日本の様子をラジオで世界に発信しました。

1938年までNHKの放送局は愛宕山にあった。(出展:Wikipedia)

1945年8月15日に戦争は終わりました。昭和天皇が戦争終結の勅書を読み上げた録音を流す玉音放送が、NHKによって行われました。

唯一は勅書を翻訳し、自ら生放送で読み上げました。

終戦に伴い、海外向けの放送は占領軍によって廃止。それに伴い、唯一はNHKを退職しました。ところが1か月ほどして、再びNHKから声が掛かります。

「ラジオの英会話放送をやってくれないか」

当時、日本はアメリカ軍を中心とするGHQ(連合国最高司令官総司令部)に支配されました。街中では駐留しているアメリカ軍の兵士が多く行き交い、英語が飛び交い。街中では英語で書かれた看板が見られました。

そういう状況のなか、日本人の間で英語に対する関心が高まり、NHKが英会話の広める役を仰せつかったのです。(GHQにも英語を広める意図があったと思われます)

最初は戸惑いがあったという唯一。それでも、アメリカで自分が積み上げた英語の経験を生かして、番組のアイディアを作成。

「赤ちゃんになったように、言葉遊びで」

という考えをモットーに、英会話を楽しく学ぶ方法を生み出したのです。

「カムカムエヴリバディ」の平川唯一(PHP研究所 

そして1946年2月。童謡「証城寺の狸囃子」に自身の歌詞をつけたテーマ曲「カム・カム・エブリバディ」と共に「カムカム英会話」が放送開始。5年間に渡って、唯一は“カムカムおじさん”として人気を集めることになったのです。■

▼連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」