どこまで実話か?朝ドラ「おちょやん」モデル:浪花千栄子の後半生は

どこまで実話か?朝ドラ「おちょやん」モデル:浪花千栄子の後半生は

2020年度後期、NHKの連続テレビドラマ「おちょやん」。主人公・竹井千代のモデルは浪花千栄子さん。

本名は南口キクノです。

「大阪のお母さん」という愛称で親しまれた女優ですが、実際の生きざまはそのイメージとはかけ離れた厳しいものでした。

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悲惨な子供時代の話など、特に前半生は今ではありえない境遇にあったキクノさん。今回は前回に引き続き、彼女の後半生をご紹介します。(以下敬称略)

★子供時代から結婚までについては、前編をぜひご覧ください。

朝ドラ「おちょやん」主人公のモデル:浪花千栄子の放送できない実話

キクノ本人の「家庭劇」始まる

1930年12月、キクノと渋谷天外は結婚して、大阪の住吉で一緒に住むことになりました。キクノにとって初めての家族らしい生活のスタートでした。

その一方で、天外が座長を務める新しい喜劇劇団「松竹家庭劇」の方は、一部では評価を受けながらも、なかなか大入りにはなりません。その理由は、

天外の頑固な<こだわり>だったようです。

天外は昔から哲学などに興味があり、自分の芝居に何らかの深いメッセージを込めようとしたのでした。それまでの喜劇のスタイルを超えた、新しい喜劇を生み出そうとしていたのです。

こういう姿勢に対して不満を持っていたのが、もう一人の看板役者であった曾我廼家十吾。彼は人をとにかく笑わせるのが第一という当時の典型的な喜劇俳優でした。二人は衝突を繰り返し、

ついに十吾は劇団を辞めてしまいました。

渋谷天外と曾我廼家十吾(1948年ごろ / 出展: Wikipedia)

人気者を失った劇団は一時解散状態に陥ます。これは天外にも大きなショックで、家でこもることが多くなりました。そんな彼を支えたのがキクノだったようです。

半年程して会社の号令で、再び劇団は再開。十吾も戻ってきたのですが、今回は彼が芝居をコントロールし、彼の意向に沿って天外が台本を書くことになってしまいました。しかし、今度は皮肉にも劇団の人気は上がり、

劇場は大入り満員になったのです。

キクノの演技も、この時、さらに磨きがかかります。それまで芝居では、台本通り演じていればよかったのですが、十吾の芝居はアドリブの連続。最初は泡を食っていたキクノですが、次第に慣れて十吾のアドリブを上手く返すようになりました

天外も再び活気が戻ったのですが、逆にキクノは再び辛いことに。なぜなら、

天外の女遊びが頻繁になったからです。

さらに別の心配事も増えます。家には天外なじみの芸人たちが頻繁に出入りしましたが、怪しげな共産主義者の姿も。当時は昭和恐慌もあり人々の生活は苦しく、共産主義に傾倒する人も多かったのです。しかし、天外と共産主義者の関係が公になれば、キクノも共犯。

二人とも松竹からクビを言い渡される危険もありました。

それでも劇団の公演は順調でした。劇団の拠点も格が上の劇場に移り、東京でも興行を行うようになり、劇団の知名度と共にキクノの評判も広がりました。

戦争を経て新たな劇団へ

しかし、次第に戦争の影響が色濃くなっていきます。

1937年から日中戦争が始まり、劇団に対する政府の締め付けが強くなりました。「戦時に喜劇は不謹慎」というわけです。1941年には日米が開戦。検閲がさらに厳しくなり、天外も脚本を書くこと自体、やめてしまいました

1945年になると大阪も空襲を受けて、劇場は軒並み消失。しかたなく、キクノと天外は、キクノの故郷(現・大阪府富田林市)に疎開し、他の劇団員たちと共同生活を強いられます。

空襲を受けた大阪市

この時、子供のころに別れた父と再会することがあったのか。しかし、彼女の自伝にはその記述は出てきません。

そして・・

1945年8月15日、終戦。

劇団は大阪に戻り活動を再開しましたが、再び十吾は天外と揉め始めて、1946年3月に大喧嘩。そして5月に今度は天外が劇団を退団。キクノ含む二十数名と共に「すぃーとほーむ」という新劇団を作って各地に巡業に出かけました。

新しい劇団には資金もなく、運営は厳しかったいいます。しかし、戦争直後の日本には娯楽らしいものはなく、劇団は各地で人気を呼びました。

そして1948年、大阪の喜劇界が大きく揺れます。

戦前からの喜劇王・曾我廼家五郎が死去。松竹は、次代を担うリーダーとして天外に白羽の矢を立てます。天外は呼び戻され、「松竹新喜劇」を結成。十吾も合流しました。

曾我廼家五郎(出展: Wikipedia)

しかし、新しい劇団はなかなか人々に受け入れらません。大きな問題は、俳優が複数の劇団からの寄せ集めだったことです。団員がまとまらず、天外も自由に台本を書けません。その結果、結成の目新しさがなくなると、客の入りが極端に減ってしまいました。

そんな劇団を支えたのがキクノでした。

この時、天外夫婦と役者たちは会社の分室に同居。キクノは母親のように彼らの世話を焼いていたといいます。

夫・天外の裏切り

1950年になると、徐々に劇団の人気が出てきます。世の中も朝鮮戦争の需要で景気がよくなり、多くの人が劇場に足を運びました。それに伴って、俳優としてのキクノの知名度も上がっていきました。

舞台の上では益々、芝居にのめりこんでいったキクノ。しかし、プライベートでは、さらに辛い目に合っていました。それは、

天外の浮気です。

キクノらが会社の寮に住まいを移すと、天外の劇団の女性たちとの浮気が始まりました。幼いころに家族を失ったキクノは、それを守ろうと必死に我慢します。しかし、さすがの彼女も腹に据えかえる出来事が・・・。この時、天外が手を出したのが、

キクノの愛弟子だったのです。

同じ寮に住んでいた女優の九重京子。二人の関係を知ったキクノは、天外と絶交に。京子が妊娠していたことが、キクノにとってさらに苦痛となりました。

その後もしばらく京子とも舞台に立ち続けたキクノでしたが、我慢も限界に達し、遂に1951年4月に退団。何も言わず、どこかに姿を消してしまいました。

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キクノの再出発

キクノが向かった先は、役者を始めた地・京都。一軒家の二階に部屋を借りて、静かに暮らし始めました。しかし、今や有名女優になった彼女を周りがほっておきません。やってきた出演依頼は、

ラジオドラマでした。

ラジオドラマは、戦争直後、全国的に人気を博していました。当時、東京のNHKが放送する「鐘の鳴る丘」が大評判。それに対抗するように大阪のNHKがラジオドラマを企画しました。

主演は吉本興行に所属していた人気漫才師の花菱アチャコ。そして彼が相手役として指名したのがキクノだったのです。

花菱アチャコ(出展:Wikipedia)

こうしてキクノが母親を花菱が息子を演ずる「アチャコ青春手帖」は始まると、途端に人気ドラマの仲間入りとなりました。放送は2年間続き、キクノは・・・

「大阪のお母さん」と呼ばれるようになりました。

ラジオ出演で人気が上がったキクノ。映画そして舞台がら再び声がかかります。1952年に「瀧の白糸」で映画に復帰。翌年には溝口健二監督の「祇園囃子」に出演し、ブルーリボン助演女優賞を受賞しました。

映画「祇園囃子」(1953)

その後、キクノは溝口監督のほか、木下恵介、小津安二郎、そして黒澤明などの名監督の映画に出演し、自他とも認める日本を代表する女優となったのです。

キクノの俳優としての意地

そして1956年に出演したのが、映画「世にも面白い男の一生~桂春団治」。これはもともと小説で、戦前の上方落語のスターの半生を描いたものでした。松竹新喜劇でも天外の脚本で公演もされていました。

映画版の脚本も天外によるものでしたが、キクノはあえて出演依頼を受けました。

俳優としての意地があったのでしょうか。

キクノが演じたのは、春団治の姉・おあき。破天荒な弟の面倒をみる頼りがいのある姉の役は、どこか実際のキクノ自身の姿が重なったのかもしれません。(2021年5月には大阪松竹座で「おあきと春団治」が上演予定)

同じ年、自宅を嵐山に建て、やっと悠々自適な生活を送るようになったキクノ。時代の流れに乗るように、新しい活躍の場に乗り込みます。

それはテレビです。

この頃、テレビはすっかり国民の間に広まり、娯楽の中心も映画からテレビに移りつつありました。それに伴ってテレビドラマでの出演が増えたキクノは、

「日本のお母さん」ともいえる存在に。

またこの頃、あのオロナイン軟膏の広告にも登場するようになり。その知名度は国民すべての年齢層に及ぶようになります。

そして決まったのが、NHKの大河ドラマ「太閤記」(1965)への出演です。物語は戦国時代の天下人・豊臣秀吉の物語。このドラマで、キクノは大抜擢された緒方拳が演ずる秀吉の母親・大政所の役

これは俳優として一つの勲章を意味するでしょう。

キクノの最後

その後、キクノのイメージは「お母さん」から「おばあさん」へと徐々に変化。テレビを中心に人々に親しみのある姿を見せ続けました。

プライベートでは、相変わらず独身を通していたキクノ。父親から受けた仕打ち。そして夫の裏切り。男性に対する断ち切れない不信感があったのでしょうか。しかし、

養子をもらい受けていたようです。

一説には二人いたともいわれますが、一人は輝美です。生き別れになっていた弟の娘。多分、戦時中、疎開した故郷で、弟の消息を掴んでいたのではないでしょうか。

キクノが晩年を過ごした嵐山

キクノは嵐山の自宅で料理旅館を営んでいました。昔の奉公時代の経験を生かしてのことなのでしょう。そんなキクノに、

突然、最後が訪れます。

1973年12月。キクノは消化管から出血。そのまま帰らぬ人となりました。前日まではいつもと変わりない様子だったといいます。享年66歳でした。■