大河ドラマで注目【徳川慶喜】①史実に見る「最後の将軍」誕生の秘密

大河ドラマで注目【徳川慶喜】①史実に見る「最後の将軍」誕生の秘密

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一。しかし、それと対比する形で準主人公として登場しているのが徳川幕府の第15代将軍、徳川慶喜です。まずあなたは、この「最後の将軍」と呼ばれる人物に、どんな印象を持っているでしょうか。

幕末の志士たちに敗れ、徳川幕府を潰した将軍。

敵前逃亡した卑怯者。

多くの人は、このようなネガティブな印象を持っているのではないでしょうか。しかし、少し歴史の事実を紐解くと、そこに浮かび上がるのは、大きな時代の流れに翻弄された、

悲劇の秀才という姿が浮かび上がってきます。

そこで今回は、「将軍家の人間でもなかった慶喜が、どうして将軍への道を歩むことになったのか」について、歴史的な事件を重ね合わせながらご紹介します。

これ読み終われば、大河ドラマで慶喜を演ずる草彅剛さんのうつろな表情に意味が理解できるかもしれません。

大河ドラマガイド「青天を衝け」前編

慶喜は徳川分家の七男坊

徳川慶喜が生まれたのは、徳川幕府が開かれてから230年あまり経った、

1837年10月28日です。

同年に生まれた著名人には、明治の自由民権運動の主導者だった板垣退助。海外ではアメリカのモルガン財閥の創始者、ジョン・モルガンがいます。

生まれたところは、江戸にあった水戸藩の上屋敷です。

当時、水戸藩主の父・斉昭は、幕府の要職に就いていたため、江戸に住んでいたたからです。幼名は七郎麿(しちろうまろ)でした。住所は現在の東京都文京区後楽で、現在、敷地の一部が小石川後楽園として一般公開されています。(詳しくは、東京都のホームページをご覧ください)

徳川斉昭 (出典:Wikipedia)

当時は大変厳しい時代でもありました。

一般庶民は、「天保飢饉」と呼ばれるとおり厳しい生活を強いられていました。そのため世の中は混沌としていて、元与力の大塩平八郎による反乱も起きました。

そもそも水戸家とは?

慶喜が生まれた水戸藩、または水戸家とも呼ばれますが、そもそも徳川家の中でどういう存在だったのでしょうか。

徳川家の家系には、将軍を途絶えさせないように3つの分家があります。それは二代将軍秀忠の弟たちを初代とする「御三家」と呼ばれ、「尾張徳川家」「紀州徳川家」、そして「水戸徳川家」です。

図1 (参考:図説日本史通覧)

水戸家初代は、秀忠の11男の頼房。そして2代目の光圀は、TBSの時代劇で有名な「水戸黄門」のご老公様のモデルのなった人物です。そして9代藩士が、慶喜の父・斉昭です。

この御三家の中では比較的非力だった水戸家。ところが斉昭が異国の侵略の可能性に危機感を持ち、藩内の教育・軍備を強化。幕政に対し強硬論で強く迫っていたため、存在感を高めていました。

父の英才教育を受ける慶喜

江戸で生まれた慶喜でしたが、物心が付き間もなく、

水戸に連れて行かれました。(慶喜10か月)

これは斉昭の方針でした。慶喜に英才教育を施すためです。江戸の下屋敷で育てば軟弱な男になる。藩の伝統としていた水戸学に基づいて、学力や武芸を徹底的に叩き込むことでした。

水戸学を中心を成す教えは、「尊王精神」です。

つまり、何よりもまして天皇を敬うという考えです。それは相手が将軍であってもということ。水戸藩初代・頼房、光圀の頃から、家訓ともいえる学問になっていました。

慶喜4歳の時、斉昭も江戸から戻り、直接厳しい指導を行ったといいます。慶喜は、衣食住のすべてについて質素で規則正しいルールでの生活を強いられ、それを守れないと座敷牢にさえ入れらていました。

慶喜(左)と斉昭

武術を好んでいたという慶喜。最初は学問は嫌っていましたが、罰を受けるのを避けるため、仕方なく励むようになったようです。

この特殊な環境のなか、物心が付いてから水戸学にどっぷで育つことになり、「天皇や朝廷には逆らうべからず」という教えは骨の髄までしみ込んでいたと考えられます。これが後年、朝廷をいただいた敵を前に、突然、大阪から江戸に戻るという奇行の起因になったのかもしれません。

1944年、斉昭に異変がおきます。(慶喜8歳)

斉昭は自分たちの軍事力を披露するために、幕府の許可なく公開で大規模な軍事訓練を行いました。さらに仏教を弾圧する動きをみせ、幕府が激怒。斉昭は隠居を申しつけられ東京・駒込の別邸で謹慎となってしまいました。

しかし、2年後、藩内の復権運動などによって、なんとか斉昭の謹慎を解かれ、藩政への関与は認められました。

国のために必死に働く父をむげにする幕府。それを傍から見ていた慶喜は、幕政を冷めた目で見ていたのではないでしょうか。周囲の期待とは裏腹に、慶喜がなかなか将軍に就くのを承諾しなかったのも無理はありません。

将軍家に近づく慶喜

1947年には、慶喜に大きな転機が訪れます。(慶喜14歳)

御三卿の一つ、一橋家の養子にという話です。これには12代将軍・徳川家慶の意向がありました。

12代将軍・徳川家慶 (出典:Wikipedia)

ここで御三卿について説明が必要になります。(図1参照)家慶の出身は一橋家。実は徳川宗家の本流は7代家継で途絶え、8代吉宗は紀州徳川家から養子に入りました。

このあと、将軍家の身内として作られたのが、嫡男家重の弟二人、そして家重の次男を当主とする御三卿。「田安家」、「一橋家」、「清水家」です。その後、10代・家治で跡継ぎが途絶えると、家慶の父、一橋家の家斉が11代となっています。

その跡を継いだ12代・家慶の子供たちは体が弱く、徳川家の行く末に不安を感じていました。そこで、万が一の場合に備えるように一橋の養子として、幕府内でも評判になっていた慶喜を招き入れたというわけです。家慶の期待があってか、慶喜には「家」ではなく「慶」の字が与え、わが子のように可愛がったと伝えられます。つまりこの時点で、慶喜は将軍になる可能性が出てきたわけです。

水戸を離れ、一橋家に突然入った慶喜。その支えとなったのが教育係の中根長十郎。そして慶喜の側で仕えたのが平岡円四郎です。彼は一橋家の人間ではありませんでしたが、斉昭の参謀とも言える藤田東湖があてがった人物です。

ちなみに領地を持たない一橋家の屋敷は江戸城内にありました。家慶との接触は容易だったと予想されます。

黒船来航に慶喜は?

1853年、日本を揺さぶる大事件が起きます。(慶喜16歳)

アメリカの黒船来航です。艦隊司令官・ペリーは、幕府に開国を迫りました。その最中に、慶喜の後ろ盾となっていた家慶が亡くなります。跡継ぎに関する遺言がなかったため、13代将軍には家慶の嫡男、家定が就きました。

アメリカ艦隊・ペリー提督(右)と老中・阿部正弘 (出典:Wikipedia)

翌年、要求の答えを求めて再びやってくるペリーに備え、老中・阿部正弘は斉昭の水戸藩をはじめ諸大名に対処について意見を聞く一方で、品川の台場には砲台を築きます。

この時、慶喜も意見を求められ、「いったんアメリカの要求をのめば、ヨーロッパの列強にも開国せざるを得ない」と要求を拒否する世に進言。水戸学の優等生らしい意見を述べています。

一方で、病弱な家定の継嗣問題が浮上します。越前の福井藩主・松平春嶽などが聡明な慶喜を家定の後継に推す動きを見せます。一方で、彦根藩主の井伊直弼や家定の生母がいる大奥が紀州藩主の徳川慶福を推していました。

しかし、慶喜本人は斉昭に書簡を送り、働きかけを阻止するように求めました。つまり、周りが期待するほど慶喜は幕政を率いる気持ちはなかったと推測されます。

そして1854年1月、再びペリーが来航。

幕府はアメリカの要求に応えて「日米和親条約」を締結。その後も、攘夷派の意見を聞き入れることもなく、イギリス、ロシアと条約を結び、一気に開国へと進みました。

慶喜が結婚した相手は?

そして翌年、1855年の10月、江戸はマグネチュード7の大きな地震に襲われます。「安政大地震」です。直後に発生した火災は1日中続き、焼死者は600人とも1000人とも伝えられます。この時、斉昭の側近中の側近、藤田東湖が圧死してしまいます。

その年の暮れ、慶喜は結婚しました。(慶喜18歳)

相手は公卿だった一条忠香の養女・美賀子です。しかし、二人の中はそれほど良くはなかったといいます。

一条美賀子 (出典:Wikipedia)

理由は、当時、一橋家には先々代の当主、慶寿の未亡人・徳信院直子がいて、慶喜は七歳しか離れていなかったこの”祖母”と仲が良く、美賀子は気まずい思いをしたようです。

一方、列強の進出に危機感を募らせる斉昭は、翌年、直接朝廷に意見書を提出。また家定の後継に慶喜をと、松平春嶽らに協力を求めました。ちなみに、その年の暮れ、将軍・家定は島津家出身で公家の近衛家養女・篤姫と結婚しています。

安政の大獄と桜田門外の変

1858年、老中首座の堀田正睦は、アメリカが求める通商条約について朝廷の承諾を得ようと参内しました。しかし、孝明天皇は列国の打ち払いを望んでおり、勅許は得られませんでした。

直後、幕末期最大の人事移動が起きます。(慶喜21歳)

開国派の井伊直弼が大老に就任。井伊は朝廷の意向に反して「日米通商条約」に調印。今回も斉昭など攘夷派も相次いで条約に反対し、再び慶喜を将軍の継嗣にと井伊に求めます。

この時、慶喜は珍しく憤り、登城すると井伊に直接会って、条約締結に関して決定した経緯天皇の意向に反したことを厳しく問いただしたようです。

井伊直弼 (出典:Wikipedia)

しかし、家定の意向によって次の将軍は家茂に決まり、斉昭らは再び謹慎。こんどは慶喜までも登城禁止という処分を受けてしまったのです。そして、家定が亡くなり、14代将軍は家茂となりました。

列強に対する幕府の判断に孝明天皇も不満でした。勅書を水戸藩と幕府に送り、自ら行いを正すように命じます。これが引き金になって、1958年に起きたのが、

攘夷派の大粛清、「安政の大獄」です。(慶喜22歳)

幕府の方針に逆らえないよう、井伊は反幕府の勢力を徹底的に処罰します。斉昭は永遠に隠居を申しつけられ、家督は嫡男の慶篤に。そして慶喜は隠居・謹慎に。あの吉田松陰は斬首となっています。

隠居の慶喜の謹慎ぶりは徹底して、昼間でも雨戸を閉め切って暮らしていたといいます。子供のころの座敷牢を思わせます。

井伊によって徹底的に封じ込められたように見えた攘夷派。しかし、逆に不満が爆発し、その刃が大老の身に降りかかります。それが、

1860年、桜田門外の変です。(慶喜23歳)

江戸城 桜田門

3月3日の早朝、登城中の井伊を水戸藩の脱藩者たちが桜田門の手前で襲撃した事件。幕政のトップの暗殺で、幕府の権威は失墜し、それ以後、尊王攘夷の志士たちの勢いが増していくことになります。

父・斉昭の死、そして慶喜は・・・

そして同年8月、隠居していた斉昭が逝去。

直後、慶喜の謹慎が解かれました。時代はさらに激動期に入り、幕府の期待がかかった慶喜が表舞台に出ざるを得なくなっていきます。続きは、次回。■

★もう一度見てみよう・・・大河ドラマ「徳川慶喜」(主演:本木雅弘)

【徳川慶喜】は暗君ではなかった?②苦悩に満ちた後見職時代