【徳川慶喜】は暗君ではなかった?②苦悩に満ちた後見職時代

【徳川慶喜】は暗君ではなかった?②苦悩に満ちた後見職時代

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」で主人公・渋沢栄一の青春時代、もっとも深く関わるのが最後の将軍・徳川慶喜です。その人生の大きな転換点となったのが・・・

桜田門外の変、そして父・徳川斉昭の死。

周囲の期待をよそに、それまで政治の表舞台にあまり出ることがなかった慶喜。しかし、日本が開国と攘夷の間で揺れる中、否応なしに歴史の矢面に立たされることになります。そんな慶喜に付けられたニックネームが、

二心殿

「いつも気持ちがコロコロ変わる」という家臣にとっては厄介な殿様。その上、自分の意図が通らなくなったり、自分の身が危なくなると、その場から逃げる行動を繰り返します。あえて言うなら、慶喜は、

“辞表殿”でもありました。

本人にとってそれは「保身術」だったのか、一種の「交渉術」だったのか。そして辞表を頻繁に出し入れしたのが、将軍家茂の後見職のころでした。

そこで今回は、後見職であった26才から28才までの慶喜の動きを通して、二心殿の実像に迫ってみたいと思います。

結果、「青天を衝け」で草彅剛さんがクールに演ずる慶喜の思いを解き明かすカギになれば幸いです。

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慶喜、事実上ナンバー2の後見職に

異国との条約を結び、攘夷派を弾圧して開国を推し進めようとした大老・井伊直弼。彼が桜田門外の変で暗殺されると、振り子が振り戻されるように異国を追い払おうとする攘夷の機運が京を中心に高まります

その煽りをまともに受けないために、幕府側が行ったの対応の一つが、幕府改革の重要人物・慶喜への手当です。1860(万延元)年9月、

慶喜の謹慎は解かれました。

しかし、慶喜と取り巻きへの警戒感もあったのか、隠居はそのまま。面会、文通の禁止も続いたままとされました。そんな折、1961(文久1)年2月、

孝明天皇の妹・和宮が将軍・家茂に降嫁。

徳川家茂と和宮 (出典: Wikipedia)

幕府には安政の大獄で亀裂が入った朝廷との間を修復し、権威を復活する狙いがあったようです。ところが、明けて1962(文久2)年の1月、

再び桜田門外で老中が襲われます。

今回標的になったのは、井伊の後釜に座っていた老中・安藤忠正。命は助かったものの、幕府の威信はさらにダウン。反主流派の攻勢を抑えようと、4月、慶喜の面会・文通の謹慎は解かれ、家茂と初めての面会が行われました。この時、

慶喜26歳、家茂17歳でした。

これまで慶喜を担ぎあげようとする動きは、主に徳川家や譜代大名からのものでしたが、今度は外部から新たな圧力が掛かります。その中心人物が、

薩摩藩主の島津久光です。

彼の兄・島津斉彬は、生前、斉昭と共に幕政改革に奔走しました。久光は兄の遺志を継ごうと動き出したのです。福井藩主・松平春嶽を大老職、そして慶喜を将軍の後見職にとの勅命を朝廷から賜り、勅使と共に江戸に乗り込んできました。

島津久光(左)と松平春嶽 (出典:Wikipedia)

劣勢の幕府は、春嶽に対しては、大老職の代わりとして新たに「政事総裁職」というポストを作って就任させました。しかし、慶喜の後見職就任には抵抗。

表向きの理由は、後見職だった田安慶頼を直前に退任させるほど「将軍は一人前になった」というものでした。しかし、17歳では幕政を引っ張る能力があるわけもなく、要は「慶喜に実権を握られたくない」ということだったのでしょう。

しかし、武力を背景に江戸にやってきた久光は、脅迫的な姿勢で幕府に慶喜の後見職就任を迫ります。結局、幕府は折れて、1862(文久2)年7月6日、

慶喜は後見職に就任しました。

自身の存在がジレンマに

長い年月と周りの尽力によってナンバー2となった慶喜。しかし、本人にとっては「やっかいな役職に就いてしまった」という気持ちだったのかもしれません。その理由は、大きく2つ考えられます。

①事実上、実権はない

ナンバー2といっても、確かな権限は何も与えられていません。幕政は相変わらず老中らが行っており、慶喜は彼らの決定に対して承認を与えるだけです。

たとえ反対しても、老中たちを止める権限はありません。また、慶喜に反対されるような政策は、そもそも慶喜には伏せられていたと考えられます。

②自身が幕府の弱体化の象徴

慶喜の後見職就任は、幕府が外様大名や朝廷の介入によって実現したものです。つまり、慶喜の存在自体が、桜田門外の変を発端とする幕府の弱体化を象徴してしまったのです。

もし、慶喜が幕政に影響力を発揮したなら、ますます幕府の権威を失墜することになってしまうのです。将軍家を支える御三卿の一橋家当主としては、それは避けなければなりません。

こういった状況に慶喜は、こう思ったことでしょう。

「もっと早くナンバー2になっておきたかった」。

しかし、それはそれまで権力から引き気味だった慶喜の自業自得。この遅れによって、この後、慶喜は自身の理想と現実の間で、右往左往していくことになります。

内輪揉めと、朝廷からの攘夷圧力

後見職の慶喜と政治総裁職の春嶽が手始めに行ったのが、参勤交代制の緩和と幕府への進献廃止。さらに朝廷には、改めて幕政方針を記した通知を送りました。その主旨は2点。

失政の詫び」と「公武一和」です。

「井伊大老が間違った政策を行って申し訳ない。これからは幕府と朝廷が一緒になって国を治めたい」。安政の大獄の失政を認め、その責任を前任者に押し付けたのです。

しかし、京では大獄の反動で攘夷への機運が先鋭化していました。朝廷に入り込んでいた長州藩が極端な攘夷論を展開。幕府に攘夷を強制させようという意見が広がっていました。そして、勅使を江戸に派遣することになったのです。

一方、幕府は翌年3月に朝廷との融和のため将軍の上洛を計画。その前に、慶喜が先乗りして公武一和の調整作業をする予定でした。ここで反対の意を唱えたのが、

頭脳明晰な春嶽です。

朝廷との交渉について、協調すべき慶喜と春嶽の意見は次のように割れてしまったのです。

春嶽「外国との条約を一旦破棄して、全国大名と国儀を開いたうえで、改めて国を開いていく」

慶喜「条約を破棄するなど不可能。戦争になってしまう。たとえ勝ったとしても、名誉にはならず」

幕府は、権力を手放すような春嶽の意見には無論反対。慶喜も反対したうえ、朝廷には無理にでも「開国」を承諾してもらうと考えました。そこで、

春嶽はストライキを起こします

しかし、どちらにしても朝廷の意に反して開国を進めるとなれば、油に火を注ぐことになりかねません。これに対し春嶽は、朝廷が開国に反対するなら、徳川家が政権を返上するから、勝手に攘夷を行えばいいと主張します。

しかし、現実派の慶喜は、それに賛成できません。そこで、一旦攘夷を受け入れる考えに変えましたが、幕府の代表としては開国論も表明しなければなりません。どうにもならなくなった慶喜がとった行動は・・・

辞表の提出です。

理由は、朝廷が開国論に同意しなかった場合、後見職として責任が取れないということです。この時、前土佐藩主・山内容堂と春嶽が説得して、辞意を翻して登城しました。

幕府内で意見がまとまらないなか、11月になると再び京から三条実美ら勅使が到着。幕府に対して攘夷の明解な決行を時期を求めました。慶喜は、攘夷の勅命をどうしても受け入れらないと・・・

再度、辞表を提出します。

しかし、幕府は勅使の意向を受けて、将軍の名において攘夷の勅奉を受けることに。翌年に将軍が上洛してその時期と手段を直接、天皇に報告するということになってしまいました。

慶喜、京で悪戦苦闘

1863(文久3)年3月に上洛する家茂に先立ち、1月初旬に京に入った慶喜(また説得され辞表は撤回)。朝廷に対して開国の必要性を説いて回るはずが、攘夷決行について攻めたてられる始末。遂には天皇からという形で決行時期について問い合わせが来てしまい、慶喜は仕方なく答えてしまいます。

将軍が江戸に戻ってから20日後に決行

慶喜が幕府の立場を守ろうとする間も、朝廷では実権を握ろうとする動きが進みます。朝廷内で国事について議論する場、「国事参政・寄人」の設立です。つまるところ・・・

挙国一致で政治を行うことです。

一方、慶喜はこれに防ぐ動きにでます。春嶽と共に、攘夷を含めた政権運営の委任を朝廷から改めて受けるべく、工作活動を行います。そうしている間に、家茂が京に到着。慶喜は将軍と面会した孝明天皇から、直々に求める言葉を賜りました。

孝明天皇 (出典:Wikipedia)

(攘夷を含む)政治を幕府に一任する」

しかし、ここでも朝廷内の抵抗に合い、実際の勅書に書かれたのは、「攘夷委任」という文字。つまり、「攘夷のみを幕府に任せる」ということになってしまったのです。

さらに幕府内でも大きな問題がありました。それは、慶喜らと老中たちのコミュニケーション不足です。朝廷に対して日増しに劣勢になる幕府はどうしていくべきか。統一方針が打ち出せていませんでした。

それでも慶喜は奮闘します。将軍の滞在を延長するなどして朝廷と交渉。「公武合体」の体制を作り、今まで通り国事は幕府が引き続き主導できように。

しかし、慶喜の努力は身を結ばす、力を合わせるべき春嶽との対立が再発。春嶽は将軍の辞任を家茂に要求して京を去り、政事総裁職を罷免されてしまします。

成果を上げられないまま、病気の家茂を京に残して江戸へ帰る慶喜。朝廷からは攘夷決行の日付を求められ、5月10日となっていました。

千載一遇のチャンス失う

江戸に向う慶喜には、頭の痛い問題がありました。それは、一年前、久光が江戸から帰る途上、英国人を殺傷した事件の賠償問題でした。世にいう・・・

生麦事件です

生麦事件を描いた『生麦之発殺』(出典:Wikipedia)

慶喜は賠償金を支払ってさっさと解決したかったのですが、それは攘夷に反する行為になってしまいます。

この時、慶喜は老中の小笠原長行とあうんの呼吸で乗り切ます。慶喜は帰還の途上、賠償金の支払い不許可の伝令を江戸に向かわせました。一方、先に江戸に戻っていた長行は、独断で横浜に入り賠償金10万ポンドの支払いを奉行に命令。慶喜は、その横浜を素通りして、江戸に到着。すかさず攘夷実行を宣言したのです。もちろん、幕府の幹部はこれを了承しません。そこで慶喜は・・・

またまた辞表を提出。

これは慶喜と幕府の茶番劇でしたが、実はその水面下で、幕府の京都武力制圧の計画が秘密裏に進められていました。長行が1500の兵力を要して海路で大阪に向かい、そこから京に上ってクーデターを起こすというものです。

当初、慶喜も同行するものと見られていましたが、出立直前、病気になったと乗船しませんでした。(多分仮病でしょう)

6月末、長行の軍は大阪に到着しましたが、京から滞在中の将軍から使者が来て、再三中止を要請。結局、京に攻めのぼることはありませんでした。

その後の情勢を鑑みると、この時、幕府は歴史の流れを変える最後のチャンスを逃した形になったようです。

国事主導権争いの矢面に

代わりというわけではないですが、2か月後、大事件が8月18日、京で起きました。公武合体派によるクーデターです。

主導は孝明天皇と公卿・中川宮、そして薩摩藩と会津藩です。攘夷派の先鋒、長州藩を京都から追い払ったのです。これを受けて、久光も1万5千の兵と共に薩摩から再び上洛します。

そして新たに国事を率いるメンバーとして、春嶽、久光、山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城会津藩主・松平容保が朝廷に集められ、慶喜も上京して加わります。(これは以前から春嶽が考えていた案です)しかし、慶喜は面白くありません。なぜなら、

幕府が主導権を取れないからです。

しかし、春嶽の説得に慶喜が同意。翌年1月、ここに幕府から独立した天皇の意向をくみながら国事を行う集まり、

朝廷参豫会議の誕生です。

ところが、慶喜がこの会議に参加することよって矛盾が生じました。慶喜は幕府を代表するわけですが、この組織は幕府とは別個の政府機関。つまり幕府はその下部組織になってしまうからです。これは幕府の威信を守ろうとする慶喜には承服できません。

そして1月15日、家茂が老中を伴って再び上洛し、慶喜の矛盾がトラブルを引き起こします。

その契機になったのが、鎖国・開国問題です。参豫会議では、争いを好まない天皇の意向を受けて開国の方向で話が進んでいました。しかし、すでに一旦受け入れた攘夷の方針に沿った幕府はこれに反対。しかし、真意は「朝廷や外様大名の言いなりでコロコロ方針を変えたくない」ということだったようです。

開国方針となった参豫会議の一員である慶喜は、老中たちの強い反発を受けます。結局、ここでも慶喜は意見を変えます。ところが、ここでからピンチを逆手に取った、

慶喜の参豫会議つぶしの策略が始まります。

慶喜らは、近々の懸案事項、横浜港の鎖港についてあえてあいまいな請書を朝廷に提出。2月25日、朝議が開かれ、朝廷側はそのあいまいさに難色を示しました。「さっさと鎖港しろ」というのです。そこで、開国したい久光と宗城が反発。慶喜と議論となってしまいます。

翌日、久光に気を使った朝廷が鎖港推進を取り下げるとの噂が流れ、慶喜は公卿・中川宮のところに押しかけ。強く抗議。さらに会議のメンバーを「天下の大愚者」と罵ったのです。

これが起因となって参豫会議は事実上崩壊。

慶喜は徳川幕府が持つ主導権の確保に辛くも成功。しかし、自ら望んだ公武合体のチャンスは失うことになりました。さらに、参豫会議に参加したことによって幕臣からの信頼も失ってしまったのです。

3月25日、慶喜は後見職を辞任。

この後、御所の警備をつかさどる守衛総督を経て、いよいよ15代将軍となる慶喜。徳川幕府の生き残りをかけた最後の試みは、次回お届けします。■

青天を衝け【渋沢栄一】とは?~本当にすごい!波乱万丈の生涯