2分で分かる【細川藤孝】~なぜ盟友は【明智光秀】を裏切ったか?

2分で分かる【細川藤孝】~なぜ盟友は【明智光秀】を裏切ったか?

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」は、無名の田舎武将ながら、数日とはいえ天下を取った明智光秀を主人公としています。その奇跡的な出世話に欠かせない人物と言えば、室町幕府15代将軍・足利義昭織田信長がまず浮かぶでしょう。

しかし、光秀の出世街道をつぶさに見ていくと、「裏のキーマン」ともいえる人物が浮かび上がってきます。それは・・・

細川藤孝(幽斎)という戦国大名です。

彼が存在していなければ、光秀は義昭に仕えることもなかったし、ましてや織田信長の重臣になることもなかったでしょう。そして、もちろん「三日天下」もありえませんでした。

そこで今回は、光秀の出世の影の功労者であり、最大の裏切り者、細川藤孝にスポットを当てたいと思います。(「麒麟がくる」では眞島秀和さんが演じています)

藤孝の正体~言うことなしの「万能人間」

細川藤孝は「文武両道」を画に描いたような人物。さらに、お家柄も大したものでした。

生まれは1534年。(一説に光秀の6才年下)

これはあの織田信長と同じでです。しかし、格式は雲泥の差があります。生地は、京都の東山。父は12代将軍の足利義晴に仕えた幕臣・三淵晴員で、その次男として生まれました。(兄の三淵藤英、「麒麟がくる」では谷原章介さんが演じています)つまり藤孝は・・・

高級官僚のお坊ちゃんです。

名前が示す通り、藤孝は幼くして細川氏の養子に入り、養父は叔父・細川元常と言われています。

その恵まれた地位を生かしてか、藤孝は武芸に加え、文化教養をしっかり身に付けたようです。幼少のとき、母方とつながりがある国学者から教育を受けました。また、剣術は戦国時代屈指の剣豪・塚原卜伝から指導を受けています。(兄弟子には武田信玄の軍師・山本勘助もいます)

1546年、12歳で元服。

13代将軍・足利義輝から「藤」を賜って「藤孝」に。将軍家からも寵愛を受けていたようです。そして、21歳の時、元常の死により、早くも家督を継ぐことになりました。早熟な藤孝は、若くして名家を支える身となったわけです。

将軍家に尽くす若侍

当時の室町幕府は非常に不安定でした。武力をもつ武将が将軍の下で勢力争いをしていたようです。

義輝は勢力で優る管領(将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の傀儡将軍となっていましたが、1564年、晴元の家臣で実力派だった三好長慶が病死すると、実質的な権力を幕府に戻そうとします。ところが、翌年5月、それを阻もうとした長慶の家臣・松永久秀 (「麒麟がくる」では、吉田鋼太郎さんが演じています) と三好三人衆が仕向けた軍勢によって、義輝は殺害されてしまいました。

足利義昭(左)と足利義輝(右) 出典:wikipedia

この時、藤孝は30歳。将軍家をずっと支えていた立場として、どんなに悔しかったでしょう。そこで取った行動とは・・・

義輝の弟・義昭の救出作戦です。

義輝は、松永久秀らによって奈良の興福寺に幽閉されていた義輝の弟・足利義昭を救い出し、東方に逃れることに成功しました。

その後、藤孝は諸国の有力武将の力を借りて上洛を目指す義昭を支えることになります。長らく敵対していた織田信長と美濃の斎藤龍興を和解させ、信長と共に上洛する計画も進んだこともありました。しかし、1566年、上洛のため兵を起こした信長は、龍興の妨害にあって撤退せざるを得ませんでした。

その年の9月、義昭ら一行が落ち着いた先が、越前(福井県)の朝倉義景のところでした。

光秀との出会い

朝倉氏はもともと京で幕府を護衛していた一族で、その功績で越前の地を与えられて、山の中に入った谷間の一乗谷に拠点を構えていました。

藤孝らが越前に入ったころ、当地に身を寄せていたのが、美濃から逃れていた明智光秀です。どうやって藤孝と光秀が出会ったのか。確かな記録は残されていません。 ただ、親交が深まったのは・・・

互いの教養の高さからだと思われます。

光秀は朝倉家のお膝元に暮らして数年、武芸と共に教養もさらに磨きをかけていました。 多分、一乗谷城下で催された武芸、もしくは歌会のイベントなどで接触するうちに、意気投合していったのではないでしょうか。

一乗谷遺跡(福井県)

その後、藤孝は光秀を家臣とし、そのまま義昭の足軽として配下に編入することになります。事実、義輝の時代から書かれた配下の記録の中に、光秀と思われる「明智」という名が記されています。

つまり、藤孝は光秀にとって大出世のキッカケを作った「出世の大恩人」だったわけです。

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幕臣の面目躍如

晴れて将軍家の家臣になった光秀は、藤孝の期待を裏切らない働きを見せます。それは・・・。

義昭の念願だった上洛の実現です。

1568年。光秀は藤孝を引き連れて美濃に向かいます。前年、信長はやっと斎藤龍興を倒し、美濃の稲葉山城(岐阜城)にいました。

稲葉山城(岐阜城)

光秀たちの義昭上洛への再度の支援要請に対して、信長はそれを承諾します。将軍を押し立てて京に上ることは、自分の力を周辺諸国に見せつけるために絶好の機会と考えたわけです。それに加え、信長の正室・濃姫(帰蝶)が、光秀のいとこであったことも助けになったかもしれません。

藤孝は涙がでるほど、喜んだに違いありません。前の将軍、義輝を死なせてしまいましたが、その志を継ぐ弟・義昭を再び京に連れて戻すことが出来るからです。

その年の8月、信長は上洛を開始。途中、義昭に反発する六角氏に圧力をかけながら進軍し、京に向かいます。その勢いを恐れたのか、宿敵の三好三人衆は逃げ出し、松永久秀は降伏しました。ほどなくして、

義昭は晴れて15代将軍として宣言したのです。

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光秀を追って信長の家臣に

しかし、信長と義昭の蜜月は長くは続きませんでした。やはり信長の目的は天下統一。義昭はそのための道具でしかなかったのです。義昭が信長の指示に従わなくなると、二人の関係は悪化しました。

そうしたなか、光秀に変化が起きます。それまで、義昭側の代理人として信長側との執務に当たっていましたが、1570年4月に起きた信長の朝倉義景攻めの際、信長軍の武将として参加したようです。(つまり、元主君を攻めたことになります)

そして、翌年の比叡山延暦寺の焼き討ちでは、第一線で戦い、武功をあげ宇佐山城(大津市)を与えられます。光秀は正真正銘の信長の家臣となったのです。これに続いて、なんと・・・

藤孝にも異変が起きます。

1573年に再び信長が上洛。この時、それまで将軍家に忠誠を尽くしてきた藤孝が一変、信長に恭順の意を示したといいます。さらに、義昭が信長に敵対する企てをしていることを、信長に密告したともされています。

藤孝にいったい何が起きたのでしょうか。そこには、光秀の助言があったに違いありません。考えられる理由としては・・・

  • 幕府を強固にできない義昭に見切りをつけた
  • このまま義昭のついていたら、自分の細川家が危ない

事実は定かではありませんが、教養がある藤孝のこと、けして感情的ではなく、よくよく考えてのことでしょう。どちらにしても、この時期から藤孝は方針を大転換したのです。

これが、のちに光秀を裏切る伏線かもしれません。

主従関係が逆転

信長の家臣になった藤孝は、長岡(長岡京市)を与えられ、その名を長岡藤孝と改めます。初めから所領を与えられということは、信長の期待が現れています。それに応えるように、藤孝は各地で行われた戦に出向き、果敢に戦います。

そして、1575年に始まった信長の畿内平定の総仕上げとなった丹波(京都府北部)攻め。その任務を任せられたのが光秀でした。藤孝もこれに参加。その時の立場は・・・

光秀の家臣です。

以前、光秀は名目上は義昭の家臣でした。しかし、実際、藤孝は自分あってものだねだとも思っていたはずです。それが、瞬く間に自分が光秀の家臣になったしまったのです。

普通に考えると、これは武士のプライドが許せない出来事です。しかし、これがきっかけで二人の関係が悪くなったという話は伝わっていません。

二人の間には上下関係より強い、友情があったと思われます。

1578年には信長の命で、藤孝の嫡男・忠興(ただおき)は、光秀の娘・玉(後のガラシ)を嫁にとり、二人は縁戚関係になっています。

1580年、藤孝は丹波の北、丹後攻略を任されます。幾度とない激しい戦いの末、光秀の加勢もあって制圧に成功。藤孝は褒美として、丹後の一部を与えられ宮津城(京都府宮津市)を居城とする大名になりました。

「本能寺の変」後の裏切り

1582年6月2日未明、本能寺の変が起きました。信長を討って、天下人の地位を固めようとする光秀は、支援を求める書状を親しい武将たちに送ります。

最も助けて欲しかったのは、藤孝に違いありません。

家臣でもあり親戚であるばかりでなく、長年、苦楽を共にしてきた盟友でもあるからです。しかし、その藤孝が即座に取った行動とは・・・

家督を忠興に譲って出家。

「仏門に入って亡くなった信長を弔う」と言って田辺城(舞鶴市)に隠居したのです。これは、なも幽斎(ゆうさい)と改名。光秀への断固たるNOのメッセージでした。これには、光秀も驚愕したことでしょう。信長を討つという計画を、事前に藤孝に漏らしていた可能性もあるからです。

田沼城

なぜ、藤孝は光秀を裏切ったか。光秀に対する反発心があったのでしょうか。二人の関係を見ると、それはなかったと思われます。本当のところは・・・

藤孝は細川家を守りたかった?

将軍家の家臣として奔走していた時代。征夷大将軍という地位があろうとも、敵対するものが勢力で優っていれば、結局潰されてしまう。義輝しかり、その弟の義昭しかり。一国一城の主として生き残り、一族を存続させるには、「人から何と言われようとも、力のある者の側に付くのだ」と決めてたのではないでしょうか。

それ故に、光秀が新しい領地を与えるという好条件を出し、再度懇願しても、一切顧みることなく、それを黙殺できたのです。

6月11日、光秀は羽柴秀吉の軍と「山崎の戦い」で激突。敗走する中で命を落としました。一方、藤孝は秀吉の家臣となったあと、「関ヶ原の戦い」では籠城戦を展開し西軍を圧迫。その功績を徳川家康に認められて、お家を存続させることに成功しました。

藤孝が人生を通して実践した教訓は、「長い物には巻かれよ」ということだったのかも知れません。■

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