【本能寺の変】光秀は、なぜ信長を討ったのか?~クーデター決行、本当の理由とは

【本能寺の変】光秀は、なぜ信長を討ったのか?~クーデター決行、本当の理由とは

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。新型コロナウイルスの影響で収録が中断し、放送休止に追い込まれる前代未聞の事態になりました。放送回数の短縮が心配されるなか、絶対外せないエピソードが「本能寺の変」です。

1582(天正10)年6月2日、当時の最大権力者・織田信長が、天下統一を間近にして、最側近の明智光秀に討たれた事件です。

なぜ光秀は信長を討ったのか?

日本史の中で最大の謎のひとつとされるこの出来事をめぐり、これまで数多くの説が紹介されてきました。

マニアにとっては、打って付けのテーマですが、歴史に詳しくない人にとっては、解説を読めば読むほど訳が分からないのでないでしょうか。そこで、今回は、議論の的になっている説を分かりやすく整理しつつ、現実的な視点で当時の光秀の気持ちに迫ってみたいと思います。

読み終わったあとで、「自分が光秀だったら、やっぱり信長を討つだろう」と思っていただければ幸いです。さあ、始めましょう。

あの日、何が起こったのか

まず抑えておきたいのは、本能寺の変の直前、

光秀を取り巻く事情はどうだったのか

ということです。それを知ることは、光秀がこの事件を起こすにあたり、成功をどれほど目論んでいたのか、という計画性を推測することができるからです。

ライバルたちは京から離れていた

同じ年の3月に、最大の脅威だった甲斐の武田氏を滅ぼし、天下統一に大きく前進した信長。5月中旬、中国攻めに自ら赴くために安土から京に入りました。しかし、手勢の兵はわずかばかり。

従軍の部将たちは、各々準備をするようにと地元に戻していたのです。

そのため、信長と共に京都の本能寺に滞在していた者は数十名、そして周囲に寝泊まりしている家来も150人程度だったといいます。

また、織田家の家督を継いでいた嫡男・信忠も、本能寺の近くの妙覚寺に入っていましたが、こちらの手勢も1500人程度だったされています。

一方、光秀のライバルはどうしていたのか。

この頃、信長の勢力範囲は、北は北陸、東は関東の北部、西は岡山県辺りまで、そして南は三重県の末端までと広範囲に広がっていました。そのため有力部将は、信長の命により、各地に遠征、または配置させられていたのです。

  • 柴田勝家 北陸方面担当として上杉景勝に対峙
  • 羽柴秀吉 中国方面担当として毛利輝元と対峙
  • 滝川一益 関東方面担当として主に北条氏直と対峙
  • 明智光秀 近畿方面(京都北部と奈良・三重)担当
  • 神戸信孝 四国方面担当として堺で準備

また徳川家康は、共に武田勢を破った慰労を兼ねて、信長により安土を経て、大阪に招かれていました。

つまり、危険なライバルたちは京で兵を動かすことができない、光秀にとって打って付けの状況にあったのです。

光秀の早朝クーデター

5月中旬、光秀は安土城を訪れた徳川家康のもてなし役を解かれ、秀吉が攻略中の備中高松城へ向かう織田本軍の先遣隊として、亀山城(京都府亀山市)で軍を整えていました。

そして6月1日夕刻、城を出陣した1万3000の光秀勢は、一旦は西に向かいましたが、間もなく光秀の号令が発せられました。

敵は本能寺にあり!

180度反転し大軍は、直線距離でわずか16キロしか離れていない本能寺に向かったのです。

2日早朝、本能寺を取り囲んだ光秀勢は、間もなく建物内に突入。わずかな家来の信長勢は総崩れとなり、負傷して屋敷の奥に退いた信長は自刃したと伝えられています。

本能寺の近くの妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠は、光秀の襲撃を聞き、籠城のため二条御所へ移動。しかしこちらも光秀勢に圧倒され、自害を強いられました。

当時本能寺があった場所に立つ石碑

嵐のような勢いで時代を動かした信長でしたが、最後は身内のクーデターであっさり倒れたのです。

光秀決起をめぐる諸説

本能寺を襲った動機はなんだったのか?

本能寺の変から10日余りで世をさった光秀が、それを自ら書き残すこともありませんでした。彼の側近もほとんどが亡くなり、以前から親しい人は「天下の裏切り者」の本心を語ることはありません。

また、本能寺をめぐる記述は多くの史料に見られますか、改変や創作と思われる事柄も少なくありません

それでも火のないところに煙は立たず。多くの歴史研究者が、それらの史料などを手掛かりに光秀決起の動機を分析して紹介しています。簡単にまとめてみると、次の通りです。

①怨恨説

テレビドラマなどを通じて何度も登場し、一般的に知れ渡っている説です。信長のパワハラにより、光秀が苦痛を強いられたり、叱責されたことに我慢ができなくなったと解いています。

代表的なエピソードは、信長のせいで光秀が母を失ったというものです。

光秀が丹波の八上城を攻略中、母を人質に差し出して和議を結びました。しかし、信長は恭順を示すため安土へ赴いた敵の部将を処刑。その報復として、光秀の母は八上城の籠城兵に殺害されたというもの。

また、直接的なエピソードとしては、武田氏を滅ぼした後の信長本陣での話があります。一同が介している場で光秀が「われわれが日ごろから骨を折った甲斐があり、武田領は上様のものになった」と言うと、

「(お前が)どこで骨を折ったのか!」

と信長が激怒し、光秀の頭を廊下に打ち付けたといいます。

しかし、これらは後世に書かれた史料のエピソードであり、今ではどれも創作であるされています。

②黒幕説

黒幕説とは、誰かが光秀を操って信長の暗殺を企てたというもの。もしくは共謀して事に及んだということです。実に多くの人物が可能性があるとしてリストアップされていますが、主な人物を紹介しておきます。

足利義昭

信長の後ろ盾があって第15代将軍に就任できた義昭。その後、信長の抑圧によって京での主導権を完全に奪われました。最後は信長に対して挙兵しますが、もちろん敗れて都落ちのはめに。毛利氏の身柄預かりとなってからは、毛利輝元をはじめ各地の部将密書を送り、信長の討伐を求めていたのです。

以前、自身の家臣であった光秀に対しても、同じような密約があったのでは、というのがこの説の分析です。

それを裏付ける史料とされているのが、本能寺の変に光秀が義昭にあてた「上洛するなら、歓迎します」という書簡です。しかし、これは事件の後、少しでも支援が欲しかった光秀の事情を示すもので、両者が結託していたという証拠にはなりません。

朝廷

信長は天下布武のため、将軍だけでなく朝廷をもコントロールしていました。当時の正親町天皇は、信長の要求などを甘んじて受けていました。

その後、信長がさらに強権化すると、朝廷への対立姿勢も厳しくなり、遂には天皇の譲位を迫るほどになったのです。そこで、朝廷の公家たちが結託して、光秀を利用して信長を討たせたとういわけです。

公家たちのグループの一人とされる吉田兼見は、プライベートでも光秀と親しく、頻繁に会っていたことも根拠となっているようです。

吉田兼見

しかし、この説を証明する確かな史料は見つかっていません。また、本能寺の変の時、信忠が籠城した本能寺にごく近い二条御所は親仁親王の屋敷です。クーデターを仕掛けた朝廷が、天皇と目される人物を危険な場所に放置するのは疑問です。

羽柴秀吉

農家の出から、信長の有力な家臣となった秀吉。下剋上の仕上げとして、信長を倒すことを目論んでいた、というものです。そのためにライバルの光秀と共闘したと説きます。本能寺の変の後、数日間で備前から大軍を近畿の戻す「中国大返し」ができたのも、あらかじめ事の成り行きが分かっていたというわけです。

しかし、目論見が実現した後、光秀と秀吉の間で、一切、共闘を思わせる連絡が取り交わされていません。もしかしたら、戦略に長けた秀吉は、光秀に信長を討つように“仕向けた”のかもしれません。ただ、そんなことは、信長の跡目を継いだ秀吉が残すはすがありません。

徳川家康

信長と義理の兄弟となっていた家康。彼も信長に不信感を持っていた部将の一人です。

以前はあらぬ疑いをかけられ、嫡男・信康と母・築山殿を死に追いやられています。最大の障害であった武田氏を倒れた後、自分の立場が危うくなった家康が、光秀と共謀して信長を討ったというわけです。

その証拠として、本能寺の変の後、外遊先の堺から三河に戻った家康が、直ちに信長領地の甲斐に侵攻したこともがあります。

黒幕説はこの他いくつもありますが、これらを決定づける史料はほとんどありません。「信長が亡くなることで得する事のは誰か」、ということを起点になっているようです。

③お家の危機説

光秀の明智家は、さかのぼれば、由緒ある土岐氏の家柄。しかし、斎藤義龍(高政)が道三を倒した際の動乱に巻き込まれ、破綻しましたした。

その後、長い浪人の時代を経て信長に仕官。再び国持となってお家の再興を果たしましたが、突如、信長から言い渡されたのが、

お国替えです。

初めて所領とした近江滋賀と苦労して制圧した丹波一国が取り上げられ、こともあろうに未だ敵の所領の出雲と石見(島根県西部)を与えられたのです。

実質上の国なしを宣告され、降格が決定的になった光秀。多くの家臣を抱えて、路頭に迷うわけにはいきません。明智家の存続のために、決断を迫られたということです。

⑤政策転換への反駁説

本能寺の変前、光秀の重要な任務の一つが四国政策でした。当地で権勢を誇っていた長宗我部氏と信長の間に入り、同盟関係を取り持っていたのが光秀。信長は阿波と讃岐の三好勢を打倒するために、四国統一を目指していた長曾我部氏と組んでいたのです。

また光秀がこの任務を重視していた理由の一つが、甥という説もある側近の斎藤利三と長宗我部元親とが義理の兄弟関係だったことがあります。

長曾我部元親

しかし、信長は急遽政策を転換。元親に三好一族から奪った領地の返還と服属を命じたのです。これに対して元親は信長との戦の準備に入りますが、それを光秀が思い留めさえようとしました。

しかし、信長は三男・神戸信孝を総大将に長宗我部討伐を命を下しました。光秀は自身の親族を守るために、決断をしたというのです。

⑥野望説

これは戦国の武将なら誰でも持っていた「天下取り」という目標に起因するものです。この当時、自分をステップアップさせるために、頭目を倒すことはめずらしいことではありませんでした。

それどころか親族同士でも、トップ争いは日常茶飯事。信長でさえ、織田家一族の結束を強めるために、弟・信勝を殺害しています。

また絶対的な権力を持つ信長に反旗を翻した家臣も何人かいました。荒木村重松永久秀などですが、すべて不利な状況での裏切りでした。しかし、光秀の場合は、これ以上ないほどの条件が揃い、「天下を狙う」にまたとないチャンスだったわけです。

しかし、実際天下を取った秀吉、そして家康も、ぞれぞれ信長、秀吉がこの世を去ってから天下取りに動くようになっています。信長が存命している光秀が天下を意識したとは限らないという意見もあります。

実際のところ、なぜ決心したのか?

様々な理由が導きだされていますが、実際のところ本当の理由はどれなのか。残念ながらそれを決定づける証拠も史料も今のところはありません。そこで、

原点に立ち戻って推測してみましょう。

信長を討つことを決めた光秀はどういう心情だったのでしょうか。それを考えるために、光秀という一人の人間から話を立ち上げる必要がありそうです。

光秀の家はが立派な家柄であることは既に紹介しまた。それが、成り上がりの斎藤道三と息子による主導権争いに巻き込まれて、居城を失って越前に落ち延びるる羽目になりました。

これは武将とって屈辱です。

その後、当地の朝倉家の城下で9年近く、不安定な身分で暮らした末に、義昭の側近・細川藤孝の家臣に。そして、義昭の仲介役を経て、前途洋々の信長に仕えることになったのです。

つまり、お家復興の道筋を掴んだ。

苦労の末に得た貴重なポジション。業績チェックが厳しい信長のもと、能力を努力で着実に実績を積み、家臣ナンバー1と言われるところまで上り詰めました。望み通り国を持ち、親族や家臣に養う頭首となり、明智家の見事な復活を果たしたのです。

2分でわかる【明智光秀】の生涯~【本能寺の変】までの道のり

そして突然訪れた、お家の危機。

明智光秀の家紋・水色桔梗

直近まで勢力を注いできた、四国政策が急転換され、心を尽くして育てた所領をあっさり取り上げられたのです。そのうえ、ライバルと目していた秀吉の援軍としての出兵。すでに50歳を超えていた光秀はきっと確信したかもしれません。

「このままだと明智家は再び没落してしまう」

美濃から追われたあの日を苦渋を思い出したことでしょう。つまり謀反の動機は、光秀の周りで起きていた様々な要因によって膨らんだ危機感だったのではないでしょうか。つまり③の「お家の危機説」を中心とした複合的な要因です。

加えて目の前にそろった絶妙なタイミング。「天下を取る」という武将としての欲望が、最後の引き金を引いたというわけです。

まとめ

大河ドラマ「麒麟がくる」では、どの理由が採用されるのか。視聴者としは、楽しみとしたいところです。ドラマ前半における明智光秀の描き方を見ると、

「正義」や「思いやり」というのが、外せないキーワードのようです。

本能寺の変については、今後もその謎に迫る新たな証拠や史料が発見される可能性は十分あります。当時の日本人の生き様に思いをはせる絶好のテーマとして、「光秀の思惑」をめぐる論議は続いていくでしょう。■