【織田信長】の生涯②~天下取りへの実地訓練・青年期

【織田信長】の生涯②~天下取りへの実地訓練・青年期

「麒麟がくる」で織田信長を演じるのは染谷将太さん。今までの豪快な信長像を覆す現代風の「サイコパス信長」で注目を浴びています。一方、実在の信長も若い頃は「大うつけ(大バカ者)」と言われており、変わり者だったことには間違いなかったようです。

そこで気になるのが、そういう信長が、

いかに天下人の素養を身に付けていったのか?

前回は、信長が天下人として育つのに有利だった環境について紹介しましたが、今回はその彼がどのように天下人に必要な知恵と度量を養っていったのかを探ってみたいと思います。

それを分かり易く紹介するために、信長が居城とした城を順に追うことで見ていきます。信長の最後の居城は安土城ですが、それまでに4つの城を本拠地にしました。

  • 那古野城(1534~1555)・・・22歳まで
  • 清州城(1555~1563)・・・30歳まで
  • 小牧山城(1563~1567)・・・34歳まで
  • 岐阜城(稲葉山城)(1567~1576)・・・43歳まで

さっそく、城を移るというステップアップごとに積みあがる、信長の素養をつぶさに見ていこうと思います。

那古野城~武士(もののふ)の継承

生まれて間もない信長を、父・信秀は嫡男として那古野城の城主に据えます。そこで母から引き離されて育った信長は、「うつけ」と言われながらも一人前の武将になるために、武術や教養を学びました。

1546年、13歳で元服すると、翌年には東の今川勢との戦で初陣を飾ったと言われています。そして、15歳の時、自分の立場を思い知る出来事があります。それは・・・

斎藤道三の娘・帰蝶との政略結婚です。

当時、信長が即する織田家(弾正忠家)は、周りが敵対する相手ばかり。尾張内で同族間の権力争いが絶えない一方、東からは京を目指す今川義元の圧力が強まり、さらに北の美濃を支配する斎藤氏との争いは断続的に続いていました。

そこで信秀が打った手が、「美濃のまむし」といわれた斎藤道三との同盟です。とりあえず敵をひとつ減らそうという信秀の戦略で、信長はその付帯条件として道三の娘・帰蝶と政略結婚をさせられたわけです。

帰蝶(濃姫)

領内ではやりたい放題だった信長ですが、この時、否応なしに、「乱世で生き残るためには、嫡男である自分さえも道具のひとつに過ぎない」という戦国の習わしを思い知ったことでしょう。

1551年、父・信秀が亡くなり、18歳で織田家の家督を継いだ信長。しかし、信秀がてこずった域内の争いに、信長も苦難を強いられることになります。

さっそく翌年から近隣の清州織田家との戦いが始まります。その際、役に立つ「道具」を獲得することになります。それは・・・

大義名分」です。

1553年に尾張東部で今川勢に勝利した信長ところに、翌年、清州織田家によって殺害された尾張守護・ 斯波義統息子・義銀が支援を求めてきたのです。これによって信長は、自分の主君である守護代の清州織田家を「謀反人」として討つ根拠、つまり大義名分を得たことになりました。

数日後、清州城の北に位置する守山城の城主であった叔父・信光の協力も得て、清州織田家の君主・織田彦五郎を清州城から追い出し、自害に追い込みました。この出来事によって信長は尾張守護の代替する存在として2ランクアップしたわけです。

この後、大義名分を利用して大きな動きに打って出る戦法を、信長は天下統一への近道として使っていくことになります。

清州城~内外で続く戦い

域内の宿敵を倒した信長は、その本拠地だった清州城に入ります。那古野城から数キロしか離れてはいませんが、域内にその力を見える形でアピールすることになったでしょう。

清州城

しかし、まだまだ苦難は続きます。1556年、自分の可能性を信じてくれた義理の父・斎藤道三が嫡男・義龍によって倒されます。北の盟友を失った信長に反抗し始めたのは、なんと・・・

弟・信勝です。

家督は信長が継いでいたものの、優秀な武将らを信秀から受け継ぎ、域内の一部の支配権を保持していた信勝。信長の地位を奪い取ろうとチャンスを伺っていたのです。

道三が死してから数か月後、兄弟による最初の激突が起こります。この時、信長は勝利しますが、母・土田御前の仲介で弟を許します。しかし、2年後の1588年、再び信勝が謀反を画策。それを察知した信長は、病と偽って信勝を呼び寄せて即、殺害。信長の取ったこの戦略はその後も繰り返されますが、これを簡単に表現すると・・・

素早い「情報取集」の後、敵を「速攻」で冷徹に潰すことです。

1559年、信長は残る守護代・岩倉織田家を倒し、尾張をほぼ手中に収めると、間髪入れず「最高権威のお墨付き」へ動きます。

500騎を伴って初めて上洛し、13代将軍・足利義輝に謁見。みずから「尾張の主」として、将軍家の承認を得よう求めました。しかし、残念ながらこの時、将軍家の権威は失墜しており、信長の思惑通りにいかなかったようです。

大金星となった桶狭間の戦い

そして翌年、人生で最初の大きな試練に見舞われます。それは・・・

有力大名・今川義元との直接対決です。

この年、駿河・遠江に加えて三河も支配していた東海の古豪・今川氏が満を持して京に向けて 進軍を開始しました。この時の両者の兵の数は、次の通り。

織田側の兵数は今川側のおよそ5~10分の1です。これではどう戦っても負けは濃厚。たとえ清州城で籠城したとしても、どこまで持ちこたえられたでしょうか。

桶狭間古戦場公園

これほど絶体絶命の状況を、信長は確固たる自信と冷静な状況判断で乗り切ます。その後、信長と親交を深める宣教師ルイス・フロイトは、「日本史」の中で信長ことを次の様に評しています。

戦運が不利な時は、度量が大きく、辛抱強く待つ。優れた理解力と明晰な判断力がある。

信長はどうやって99%不利な立場をひっくり返し、大勝利を引き寄せたのか。そのポイントは2つあります。

  • 1.目標を大将の今川義元の首に絞った。
  • 2.徹底的した諜報活動を行った。

当時の一般的な戦は、兵の先鋒同士から始まり、強い方が前進を続け大将に詰め寄っていきます。しかし、そういった正攻法では信長に勝ち目はありせん。そこで、彼がとったのは敵の大将・今川義元を討つために兵を集中させる戦法です。

ただ、大軍の中にいる義元ですから、近づくことは容易ではありません。そのため、それが可能な状態になる瞬間を、的確に掴んで、一気に仕掛けなければなりません。

そこで必要になったのは、第二のポイントの・・・

徹底的な諜報活動です。

まず、多くの間者つまり、諜報員を各所に配置し、進行する今川勢の動きを逐一、把握することに努めました。

また、自軍の動きを悟られれないように、相手の間者を封じ込めることを徹底したようです。織田側内にいる今川への密通者をくまなく捕らえたといいます。

そして、勝敗を決した5月19日未明。じっと静観していた信長は、突然出陣しました。正午過ぎには桶狭間に到着し、雨が降る谷間で休息をとっていた今川本体を奇襲。

つまり電光石火の「速攻」です。

瞬く間に義元を殺害し、敵の本体を粉砕。日本史に残る大金星をあげたのです。当時の最も天下人に近かった大名を倒した信長。その名は、あっという間に全国にとどろいたはずです。

小牧山城~親子二代の聖願成就

東の脅威、今川義元を破った信長。残る相手は、父の代から長年にわたって争ってきた美濃・斎藤氏でした。桶狭間の戦い後、わずか3か月後に行動を開始しました。

まず信長が行ったのは、新しい城を清州城と斎藤龍興の居城・稲葉山城の間に築城すること。両城の距離は25キロあります。信長勢は、攻め込むごとに往復50キロを移動しなければならず、父・信秀が斎藤道三が率いる美濃勢と相対するに時に常に不利になっていました。

そこで信長が目を付けたのが、二つの地点のほぼ中間に位置する小牧でした。ここから稲葉山城への距離は約20キロ。往復で10キロ短縮することができ、美濃各所にも容易に移動することができます

小牧山城

1563年、信長は真新しい小牧山城を新しい本拠地としました。そして本格的な美濃攻めを始めたのですが、今回の戦いで信長が行った戦略は、斎藤氏を包囲するための

徹底した「包囲網」と「調略」でした。

まず西。桶狭間の戦いでは、今川勢の一員として参戦していた三河の松平公康(後の徳川家康)。信長は彼を呼び寄せ、今川氏から自立を保証することを条件に同盟関係を結びました。

そして東。信長は近江の領主・浅井長政に妹の市を嫁がせ、これまた同盟関係に。美濃の「包囲網」を完成させます。

そして斎藤勢の武将たちに「調略」の手を伸ばします。執拗に使者を送り、調略工作を仕掛けました。その結果、斎藤勢の要となっていた「美濃三人衆」等を寝返させることに成功したのです。

こうして頑強な斎藤勢も弱体化し、孤立を深めました。そして1567年、信長は斎藤義龍(高政)を継いだ龍興を破り、美濃の平定に成功します。かつて斎藤道三が「美濃は信長殿に譲る」と遺言した通りとなったのです。

岐阜城~京に向かう起点に

岐阜城(稲葉山城)

桶狭間の戦いの後、およそ7年の歳月をかけて美濃一帯を市中に収めた信長。信秀の時から北の重石になっていた斎藤氏の居城だった稲葉山城に入ります

同時に城下を「岐阜」と定め、城の名も「岐阜城」と改めました。

晴れて周辺地域に敵なしとなった信長は、次の目標を天下、つまり京に向けます。そのために利用したのが・・・

後の将軍・足利義昭です。

およそ10年前に京で謁見した第13将軍・足利義輝は、三好三人衆によって殺害され、傀儡として従兄弟の義栄が14代将軍に就いていました。義輝の実弟・義昭は、細川藤孝ら家臣と共に越前(石川県)の朝倉義景のところに身を寄せ、復権の機会を伺っていました。

合わせて読みたい・・・2分で分かる【細川藤孝】~なぜ盟友は【明智光秀】を裏切ったか?

2分で分かる【細川藤孝】~なぜ盟友は【明智光秀】を裏切ったか?

1568年。信長のもとに義昭上洛の支援を願うべく藤孝と明智光秀がやってます。上洛支援は既に義景を含む他の大名にも依頼していましが、自らの領地固めのために余裕がなく、二の足を踏んでいたのです。しかし、信長は・・・

大義名分と今の勢いで、一気に京に攻め上れる

と思ったのでしょうか。支援要請を受け入れ、その2ヶ月後に上洛を敢行しました。その際にも、ルートに対する事前の諜報活動も怠りません。

近江の南、琵琶湖の脇には、義昭の上洛を良しとしない三好三人衆と連携する六角勢がいました。しかし、信長は調略によって六角勢の取り巻きを切り崩すと、露払いのごとく自ら率いる本軍で六角義治を粉砕。その勝ちっぷりに恐れをなした京の三好三人衆は、信長との直接対決を避け、義栄は間もなく病死します。

その結果、同年9月26日に、信長に率いられた義昭は無事上洛。信長の偉業は天下に響き渡りました。

10月18日、義昭は第15代将軍に任じられました。しかし、手勢の兵は十分なく、支えるのは信長勢。つまり、信長は地元・尾張美濃の平定からわずか一年で、

京を実行支配するまでになったのです。

この時、信長は35歳の働き盛り。しかし、京を管理しながら、地元の尾張・美濃を同時に支配することは困難を極めました。なぜなら、田舎武将であった信長が都を制圧したことにより、全国の名だたる武将たちの天下取りの気運が高まることになったからです。

「本能寺に変」で没するまで、信長は甲府の武田勢をはじめ、様々な強敵と相対することになります。次回は信長の天下統一を目指す10年について読み解きます。■

合わせて読みたい・・・【本能寺の変】光秀は、なぜ信長を討った?~クーデターの理由とは

【本能寺の変】光秀は、なぜ信長を討った?~クーデターの理由とは