鋭く読み解く【織田信長】の生涯①~“革命家”を育てた幼年・少年期

鋭く読み解く【織田信長】の生涯①~“革命家”を育てた幼年・少年期

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」。主人公は明智光秀ですが、裏の主人公は彼が裏切ることになる戦国時代の代表的武将・織田信長です。そして誰でも思う疑問が・・・

なぜ光秀は主君の信長を本能寺で討ったのか?

この戦国時代、最大の謎に迫るためには、光秀の生涯を知ることが必要ですが、同時に裏切る相手となった信長も知ること欠かせません。なぜなら、光秀も信長の多くを知った上で、歴史上に残る謀反を起こしたのですから。

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そこで、信長の生涯を数回にわたり、重要なポイントに絞って分かり易く紹介していきます。しかし、ただ単に出来事を辿るだけでなく、それらが信長という人物の形成にどう影響したのかも考えてみたいと思います。

このシリーズを一読すれば、大河ドラマも数倍楽しく見られること請け合いです。それではまず、「信長」を形成した幼年~少年期から見ていきましょう。

天下人への必要条件は「出生」

まず最初にして最大の命題に迫ります。それは・・・

なぜ信長は、天下人を目指せる武将になれたのか?

もちろん、もともと本人に優れた武将の資質があったとも言えますが、その他に彼があずかり知れない「出生の環境」が大きく影響していると思われます。その信長の出生について、特質すべきポイントを3点に絞ってみました。

  • ①勢いのある戦国武将の嫡男に生まれた
  • ②父親が厳しい勢力争いに直面していた
  • ③尾張の位置が京都から適当な位置にあった

それでは一つ一つ、見ていきましょう。

①力ある戦国武将の嫡男に生まれた

時は群雄割拠の戦国時代の黎明期。いつ敵対する隣国が攻め込んでくるか分かりません。それ故、戦国大名の嫡男にとって、出生~幼年期は国が比較的安定していることが重要です。

父・織田信秀(1511~1552)は信長が生まれる1534年当時、尾張で勢力を拡大するほどの武将でありました。

当時、この地域の守護(幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官 )は、斯波氏でしたが、当時、力は全く持っていませんでした。そのため、守護の代わりとなる守護代である織田家が二派の大和守(やまとのかみ)家伊勢守(いせのかみ)家に分かれて支配していました。

信長を抱く母・土田御前(左)と父・信秀(右)

信秀の織田家は弾正忠家という大和守家に使える三奉行の一つに過ぎなかったのですが、信長の祖父・信定の時から勢力を拡大し、信秀の時には大和守家を凌ぐ勢力を持っていたようです。

つまり、信長は、こうした力のある信秀の子として生まれ、比較的安定した環境で幼少時代を過ごすことができたわけです。

②頻繁に戦に出ていく父親が良い見本となった

将来、幾多の戦を戦い抜く武将になるため、幼根期は戦の仕方や家来の使い方についての知識を身につけなければなりません。信長は父の背中を見て、それを学ぶことができたのです。

勢力拡大に意欲的だった信秀は、戦に明け暮れる日々を送っていたようです。尾張内の小競り合いに加えて、隣国とも幾多の戦をおこなっています。

代表的な相手の一つが尾張の北、美濃(岐阜県南部)を支配していた斎藤道三とです。道三は卓越した策略家であり、信秀は手痛い敗戦も経験しています。

一方、東には強力な戦国大名の今川義元が控えており。今川氏に従属する三河(愛知県東部)の松平氏(後に徳川)と何度も戦い、義元が派遣した大原雪斎には敗北も期している。

こういった戦の合間を縫って信秀は外交も手広く展開していました。領地内の経済活動によって蓄えた資金を使い、上洛して朝廷に献金する傍ら、幕府にも礼を尽くしました。中央の権力ともつながりを作り、地元での権威に結び付けようとした外交手腕が見てとれます

その嫡男として生まれた信長は、そんな「父親の背中」を見て育ちました。自ずと、どうやって敵対する相手をつぶし、取り込んでいくかを習得したのでしょう。

同族の織田家や周辺諸国の武将たちを前にして、幾度となく挑む信秀の姿は、信長に大きな影響を与えたに違いありません。

③織田家の本拠地が比較的京都に近かった

当時の戦国武将にとっての「天下」とは、京を中心とした近畿地方のこと。この時代、よく耳にする「天下を取る」というのは、京を手中に収め、朝廷を勢力下に置くことを意味したと考えられます。

織田信長が生まれた時、天下を取ろうと狙っていた有力な大名は、既に何人かいました。まず筆頭は、甲斐(山梨県)の武田氏。そのライバルともいえる越後(新潟県)の上杉氏。そして遠江(静岡県)の今川氏。西に転ずれば、中国の毛利氏。

しかし、いかんせん彼らの本拠地は京都から遠い。天下を取るためには京に向かって長い道のりを進まなければなりません。そのためには幾多の戦に勝たなければならず、莫大な兵力と資金が必要になります。

その点、織田家の尾張は、京に遠からずも近すぎず。(近いと京の内乱に巻き込まれます)地元の支配を万全にすれば、京への道のりは比較的近いということになります。(実際、信長は比較的早く上洛を果たしています)

“大うつけ”の正体

日本人が誰でも知っている歴史上の大人物・織田信長。しかし・・・

実は、信長の出生地はハッキリしていません。

数十年前までは、信長生まれた場所は、当時、父・信秀が居城としていた那古野城(後の名古屋城の二の丸辺り)とされてきました。また、一方で信長が生まれた1534年、信秀は古渡城を築城しているため、信長の出生場所をこの城という説もあります。

しかし、那古野城については、山科言継の残した記述によると、1532年当時、まだ信秀のモノになっていません。また別の資料によると、「1534年に勝幡城で信長が生まれた」という記述があり、今では勝幡城説が有力になっています。

勝幡城は、那古野城から西に十数キロはなれたところにあり祖父・信定が居城としていたものを、父・信秀が引き継いだ城です。

(左)那古野城があった名古屋城・二の丸付近 (右)勝幡城址

どちらにしても、信長は現在の名古屋市の中心に位置していた城を行き来しながら育ったようです。

「うつけ」を演じた?

信秀は、 次男にも関わらず早くから信長に由緒ある城・那古屋城を与え、家督を継がせるつもりがあったと思われます。今でいえば、信長は地域権力者の跡取り息子、「坊ちゃん」として育ったのです。

信長は幼きころから、武芸の訓練に励みました。しかし、15歳ごろから、行儀が非常に悪くなり、周りから「大うつけ」と呼ばれるようになったと言います。 「うつけ」というのは、簡単に言えば「常識はずれの人物」を幾分さげすんで呼んだもの。 『信長公記』によると、信長は、夏は浴衣姿に腰には薄汚い子袋をぶら下げて、柿などにかぶりつきながら、悪ガキたちと歩いていたようです。

これは今でもよくある、有名人を父に持つ息子の反発か?実はそこには、この時代を生き抜く知恵があったと、『織田信長 四三三年目の真実』の著者、明智憲三郎さんはいいます。彼によると・・・

信長は「大うつけ」を演じたというのです。

血気盛んな尾張の武将、織田信秀の嫡男に生まれた信長。その勢力の加護のもと、外敵の脅威からは安全な環境であったようです。しかし、身内の敵はそうもいきません。

当時はまだ正室の他に側室を持つのが普通であり、彼女たちが設けた子供たちが父親の跡目を虎視眈々と狙っていたことでしょう。少なくとも信秀の息子は、信長の他、5人以上がいたと思われます。また、他に複数の織田家がありますので、危険度は半端ありません。

簡単に言いますと、この頃の信長はいつ殺されてもおかしくなかったのです。それを避けるために、「大うつけ」を演じた。素行に大きな問題を抱えていれば、とうてい一族を率いるリーダーになることはできない。家督を継いだとしても長くはないと、周囲に思わせることができるというわけです。

父の死と革命家への道

これは信秀の戦略かどうかは定かではありません。しかし、信長は信秀が亡くなった後、周囲を欺く“大芝居”を信秀の葬儀で披露します。

信秀が亡くなった1552年(他説あり)。僧侶を300人を集めて葬儀が行われました。焼香のため立ち上がった信長は、いつもの大うつけの姿。するとあろうことか、抹香を掴むと仏前に投げつけたというのです。参列者は一応に驚き、 弾正忠家の先行きを口々に案じたといいます。

もし、このとんでもない振る舞いで周囲の警戒感を削ぐ魂胆としたら、信長の魂胆は見事に成功したことになりますが、実際はそんなに甘くはなかったのです。

★もう一度見直そう 「大河ドラマ 信長~King of Zipangu」

家督を継いだ途端、織田大和守家との対立が表面化し、信長はいやおうなしに戦に駆り出されていくことになりました。

そして、信秀の葬儀から2年後。信長の御守役として、幼いころから一番信頼を置いていた家老・平手政秀が、信長の素行の悪さを諫めるために切腹しました。さすがの信長も、事の時は大いに悲しんだと言います。

ところが、政秀が亡くなったあとも信長のうつけ振りは変わらなかったといいます。これが家臣に一目置かれる立場を貫く「信長像」につながったのではないでしょうか。日本の歴史を変える革命家の原点はここにあったのかもしれません。■