【徳川慶喜】の実像③「最後の将軍」は在職1年で何をやったのか?

【徳川慶喜】の実像③「最後の将軍」は在職1年で何をやったのか?

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」。前半の舞台となるのが、激動の幕末です。

これまで多くの幕末ドラマ(参照:過去20年の大河ドラマ)がありましたが、その大半が「幕府を倒す側」の視点が中心でした。それに対して今回の大河ドラマの視点は、

倒される幕府の側です。

その中心となるのが、15代将軍・徳川慶喜(「青天を衝け」の草彅剛さん)です。初代家康と並び評される智将と評されながら、幕府と朝廷の間で四苦八苦する姿を、これまで2回に渡り紹介してきました。

【徳川慶喜】は暗君ではなかった?②苦悩に満ちた後見職時代

そして今回は最終回。ついに将軍という幕府のリーダーとなった慶喜が、どう動き、そして動かされたかを、歴史の流れに沿って分かりやすく紹介していきます。そのなかで解き明かしたいのが、二つ大きな疑問です。

①慶喜は、何をどうしたかったのか?

②なぜ伏見鳥羽の戦いで、敵前逃亡したのか?

この二つの疑問を解き明かせば、「卑怯者」とか「変わり者」と言われた慶喜の実像を垣間見ることができるかもしれません。

なお、今回の執筆にあたり、参考にした主な文献をあげておきます。「もっと深く知りたい」という方は、ぜひ手に取ってみてください。

「徳川慶喜~将軍家の明治維新」松浦 玲中公新書
「徳川慶喜」家近 良樹人物叢書
「十五代将軍 徳川慶喜」大石慎三郎NHK出版
「歴史人 幕末維新の騒乱と戦争」KKベストセラーズ

なぜ、“京の警備隊長”になったのか?

幕府の権威を蔑ろにした参預会議(第2回を参照)のぶち壊しに成功した慶喜。同年、元治元年(1864)3月25日。新たな役職に就任します。それは、

禁裏御守衛総督。

禁裏(きんり)とは御所の庭という意味です。それでは、なぜ慶喜はこのポジションに就くことになったのでしょうか。そこには、朝廷側、そして慶喜側、それぞれの思惑があったようです。

まず朝廷側はこの時、複数の理由で慶喜の庇護を欲していました。

京都御所(健礼門)
  • 文久3年(1963)の「八月十八日の政変」により国事から追放された長州藩は過激化し、朝廷はその暴発を恐れていた。
  • 薩摩藩が勢力を拡大させ、京に近い大阪に軍事的拠点を作ろうとしていた。
  • イギリスなどの欧米列国が、朝廷に対して圧力を強めつつあった。

一方、慶喜は・・・

それまでの立場は将軍の後見職。つまりあくまで幕府の代理人です。その代理人が朝廷とのやり取りを主導したため、幕府から反感をかっていました。将軍・家茂も、慶喜のことが好きではなかったようです。

将軍後見職という窮屈な立場を逃れ、直接、朝廷のために働きたいという思いがあったのではないでしょうか。もともと彼には水戸学の「尊王の精神」があるわけですから。

禁門の変での華々しい活躍

新しいポジションについて3か月後、存在感を高めるチャンスが訪れます。それは、

禁門の変です。(またの名を「蛤御門の変」)

「八月十八日の政変」によって国事から追放された長州藩は、汚名を返上するために京に大軍を送りました。その数、およそ2千。

御所の中では、長州を支持する公家たちが擁護工作を開始。これに対して慶喜は、参内して長州征伐の勅命を受けます。朝廷への嘆願が叶わない長州軍は、7月19日未明、京の街に進軍し攻撃を開始。ここから・・・

慶喜の大活躍が始まります。

御所の外では、各門に諸藩を配置して陣頭指揮を執る。御所の中では、長州派の公家の抑え込み工作です。中には天皇の御所退避を言い出す公家もいました。

そして各門で長州藩との戦闘が激化。蛤御門(図の③)では、宿敵の会津藩と激突しました。一時は長州側が押し気味でしたが、乾御門(図の①)から薩摩藩が助太刀に駆け付けて粉砕しました。

会津藩と長州藩が激突した蛤御門

南の境町御門(図の⑤)へは長州軍リーダーの久坂玄瑞らが攻撃。劣勢のなか、久坂は御所内に侵入しましたが、取り囲まれて敢え無く自刃しました。

汚名を晴らすどころか、ますます「朝敵」になった長州。朝廷は幕府に討伐を勅命。しかし、征伐の大将を誰にするかで幕府はゴタゴタ。結局、尾張藩主の徳川慶勝が総大将となりますが、薩摩藩の西郷隆盛の講和策に乗っかって、途中で兵を引いてしまいます。

一方、慶喜は同郷の輩が頭痛のたねになります。

それは、天狗党の乱です。

元治元年(1864)3月、慶喜の父・斉昭の志を継いだ水戸藩の過激な志士が中心になって起こした反乱。水戸藩の佐幕派はから依頼された幕府軍と水戸周辺で激戦が繰り広げられました。

豊原国輝筆「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」(出典:Wikipedia)

追い詰められた天狗党は11月、同郷の慶喜に頼るべく、約千人の軍勢で中山道を西進して、京を目指しました。

しかし、慶喜は今や京の警備を担う責任者です。また、天狗党が掲げる「攘夷」は時代遅れの考えとなっていました。そういう天狗党が京に入り、ただでさえ混乱する京の街を乱されてはたまりません。

慶喜は天狗党討伐を担って出陣します。

それを知った天狗党を率いる藤田小四郎武田耕雲斎は、慶喜軍と一戦を交える前に投降を決断。慶喜はその対応を幕府軍を率いる田沼意尊に任せますが、情状酌量なく、藤田と武田を含む約350人は、翌年3月に処刑されました。

慶喜は、藤田たちの処遇を田沼に任せるとき、そうなることは分かっていたはずです。が、幕府側の重鎮になった身としては、致し方なかったのでしょう。

幕府と本格的な対立へ

将軍後見職を辞した後も幕府代表のように京で活動していた慶喜。禁門の変での活躍で、その影響力を拡大させていました。それに、危機感を高めたのが、江戸にいる将軍の側近たち、つまり幕府です。

これ以上、将軍を蔑ろにするのは許せない。

そして決まったのが、家茂の上洛です。目的は、禁門の変後、再び勢力を盛り返す兆しを見せる長州藩叩き。家茂がこの長州攻撃の総大将となって、将軍の権威を取り戻そうというわけです。これが世に言う

第2次長州征伐です。

家茂は慶応元年(1865)5月、大阪城に入りました。朝廷から討長の勅命を得ましたが、長州藩と密約を結んでいた薩摩藩をはじめ諸藩は加勢に後ろ向き。そして9月、別の事件が発生します。

欧米列国が大阪湾に大集結したのです。

要求は幕府と結んだ条約に対する勅許、そして兵庫の開港です。これは幕府にとって屈辱的な出来事でした。なぜなら、「列国が幕府を日本政府として認めていない」ことを意味するからです。

列国に対し、幕府の老中・阿部天外が兵庫の開港を許可しましたが、これに慶喜は反対。朝廷内の反幕府派が行う「反開港の運動」を勢いづけさせてしまうからです。

慶喜が京と大阪を往復して事態を収拾している最中、家茂は将軍職を辞する旨の書状を慶喜に託し、江戸に帰ろうとします。それを何とか引き留めた慶喜。

得意の政治調整能力を発揮します。

京に戻ると御前会議の開催を求めるなど、工作を活発化。薩摩藩を後ろ盾とする公家の抵抗に合いながら、兵庫の開港の保留と引き換えに念願だった条約の勅許を得ることに成功したのです。列国側も念願の条約勅許が得られたので、兵庫の開港延期に同意しました。

一方、幕府はいよいよ長州征伐を開始。

長州藩は藩主の隠居蟄居など処分案を拒否。幕府と諸藩は慶応2年(1866)、長州藩へ攻撃を開始します。長州を取り巻く4か所で戦闘が起きますが、薩摩の武器支援を受けた長州藩は連戦連勝。

兵力と軍備で圧倒していた幕府側は、長州を殲滅するどころ各地で敗走します。そのショックがあったのか、7月20日、

家茂が大阪城で病死。21歳でした。

ついに将軍慶喜が誕生

家茂が亡くなり、徳川宗家を継いだ慶喜。しかし、しばらく将軍になるのを拒みました。そこには、

慶喜に策略があったと思われます。

まず、慶喜は敗戦に終わった長州征伐について、朝廷などからの反対を押し切って長州藩との休戦協定を成立させます。

次に、越前の松平春嶽が提案した諸藩を集めて合議を行う方法に転換したかに見せます。実際、将軍職が空位なので幕府はないとも言えるわけです。

ところが、これは流れを幕府の方に戻すための作戦だったようです。慶喜は幕府派の諸藩を集めて大名会議を招集するなど、朝廷内で徳川の求心力を高めます。春嶽はこれに落胆して越前に帰ってしまいます。

そして12月5日、孝明天皇の宣下を受け、慶喜は満を持して

第15代将軍となります。この時、慶喜30歳。

本意ではなかったかもしれない将軍職。が、これで幕府と朝廷の板挟みで苦しむこともなくなりました。やはり政策を自分の思い通りスピーディーに行うためには将軍の地位が必要だったのかもしれません。しかし、歴史は慶喜を突き落とします。将軍慶喜の誕生20日後、

孝明天皇が崩御。

死因は天然痘と言われていますが、反幕府派の暗殺という噂もありました。孝明天皇の後継は、反幕府側の影響力が及ぶ睦人親王。若干14歳で明治天皇として即位しました。

慶喜 vs反幕府派

将軍になった慶喜。まず反幕府派との争いの舞台となったのが、「兵庫の開港問題」でした。

欧米列国との条約では、当初、5港の開港を約束していました。勅命が降りた後、地形的な理由で除外された新潟以外で開港していないのは兵庫だけでした。先延ばしにしたこの問題を片付けたい慶喜は、列国公使に将軍就任の宣言をした席で、兵庫の開港を約束しました。

薩摩藩らは勅許前の独断を理由にして、慶喜を抑え込もうとします。慶応3年(1867)5月に開かれた四侯会議(薩摩、土佐、越前、宇和島)で、兵庫開港の問題などで慶喜をつるし上げようとしました。

しかし、逆に慶喜の冴えわたる説明に参加者は完全に抑え込まれ、集団指導体制への移行という薩摩の目論見はあえなく崩れ去ります。一方、慶喜はこの流れを生かして朝廷に徹底交渉。幼い明治天皇の摂政を説き伏せて兵庫開港の勅許を得ました。つまり・・・

慶喜の完全勝利です。

しかし、これ以降、薩摩藩が強硬な討幕に舵をきっていきます。慶喜が聡明すぎるのも仇になったわけです。

朝廷内での権力闘争と同時に、慶喜は軍事面を含めた幕府の改革を図ろうとします。そのためには資金が必要でした。そこで頼りにしたのが

フランスです。

公使のロッシュを介して得た240万ドル(当時)を元手に、製鉄所や造船場を建設。軍事顧問をフランス政府から招聘し、軍隊の西洋化を進めました。旗本から侍を積極的に徴兵し、陸軍と海軍の兵力増強。海軍の教練にはイギリスから協力を得ました。

徳川慶喜とフランス公使ロッシュ (出典:Wikipedia)

また幕府の行政面でもロッシュのアドバイスを受けて、陸軍・海軍・会計・国内事務・外国事務、それぞれに総裁を置く担当制に変更。外交では、フランスの万国博覧会に弟・徳川昭武を派遣し、外国との交流を推進することにしました。

その欧州派遣団には、渋沢栄一も加わっています。

幕府を急速にアップデートする慶喜。その一方で討幕同盟を組む薩摩、長州、安芸藩に土佐藩の反幕府派が加わり、慶喜を国事から締め出す策略が進行してたのです。■

【徳川慶喜】の真実④~なぜ「最後の将軍」は敵前逃亡したのか?