【徳川慶喜】の真実④~なぜ「最後の将軍」は敵前逃亡したのか?

【徳川慶喜】の真実④~なぜ「最後の将軍」は敵前逃亡したのか?

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」。主人公は「日本資本主義の父」・渋沢栄一ですが、それを凌駕している登場人物が第15代将軍の徳川慶喜です。

ドラマでは,、元SMAPのメンバーの草彅剛さんが、そのミステリアスな人物像をうまく表現して評判になっています。その慶喜が将軍の座に就いていたのは、

わずか1年たらず。

ただその1年の間には、幕府を守りつつ新しい日本を模索する慶喜とそれを打ち破ろうとする薩摩との壮絶なドラマが凝縮されています。遂には大政奉還し、鳥羽伏見の戦に突入した慶喜について思う最後の疑問が、

どうして敵前逃亡したのか

慶喜の生涯を紹介するシリーズの最終回。今回は、いよいよこの疑問に正面から挑んでみたいと思います。その前に、このシリーズ執筆に際して参考にした主な参考文献を参考までに上げておきます。

「徳川慶喜~将軍家の明治維新」松浦 玲中公新書
「徳川慶喜」家近 良樹人物叢書
「十五代将軍 徳川慶喜」大石慎三郎NHK出版
「歴史人 幕末維新の騒乱と戦争」KKベストセラーズ

なぜ慶喜は、自ら権力を明け渡したのか?

将軍に就任し、幕府の改革することで徳川の力を再構築しようとした慶喜。しかし、彼に敵対する動きは急速に高まっていきます。

その中心は、やはり薩摩藩でした。

1867年(慶応3年)5月に開催した四侯会議(薩摩、土佐、越前、宇和島藩:「徳川慶喜③」参照を慶喜に骨抜きにされた薩摩藩は、平和的に慶喜を排除することを断念。すでに密約を結んでいる長州藩に加え、土佐藩とも共同戦線を張る薩土盟約を交わしました。目指すところは…

ずばり倒幕です。

しかし、土佐藩は薩摩藩や長州藩の強硬的な戦術には同意せず、慶喜に大権を返上させる案、つまり「大政奉還」を提案しました。薩摩藩は、これに同意。そこには、先を読んだ戦略があったとみられます。それは、

政治改革ため、執政権を朝廷に返還(つまり「大政奉還」)するように求めても、慶喜はそれに応じないだろう。そうなれば、慶喜が朝廷に逆らったということで、幕府を罰する「大儀」となるという流れです。

大政奉還の案は土佐藩の山内容堂によって、慶喜に提出されました。ところがこれを慶喜が受け入れたのです。慶応3年(1967)10月13日、喜は二条城で大政奉還を宣言、翌日その旨を朝廷に伝えました。

大政奉還 (出典:Wikipedia)

なぜ、慶喜は大政奉還を受け入れたのか?

そこには、慶喜の深読みがありました。簡単に言うと、次の2つの理由があったと思われます。

① 薩摩藩らに倒幕派に大義を与えない。つまり、慶喜は薩摩の魂胆を読んでおり、相手の案をすんなり受け入れることで、攻撃する口実になるのを避けた。

② 自分が主導する幕府の統治能力への自信。所詮、朝廷には国を治める能力はなく、諸藩の協力が頼み。その中で譜代を多く抱える徳川の力はまだ絶大であるため、結局、元の鞘にもどる。

薩摩藩主導のクーデター敢行

情勢は慶喜の思惑通り進んでいきます。朝廷は大政奉還の申し出をしぶしぶ受理。それに追い打ちをかけるように、慶喜は24日、将軍職の辞任も朝廷に申し出ました。

早急な対応ができない朝廷は、暫定としながらも国政をこれまどおり幕府にまかせ、将軍職もこれまで通りとしました。

つまり、慶喜の読みが的中したのです。

慶喜に再度してやられた薩摩などの倒幕派。その憤りが噴き出すように、強引な手段に出ます。それが、

王政復古のクーデターです。

薩摩藩と組んでいた公家の岩倉具視が12月9日、朝議に参加していた親幕府派の公家の退出を待って参内。明治天皇がお出ましのまま、「王政復古の大号令」を発したのです。これは簡単に言うと、「天皇が再び自ら政治を行う」という宣言。

同時に、幕府と摂政関白は廃止され、代わりに総裁、議定、参与という三職を天皇の下に置き、政治を司ることとしました。

これはつまり、将軍職の消滅を意味します。

あまりに強引な手法に、当時はまだ譜代の立場であった土佐藩と越前藩が反発し、緊急の大名会議の開催を主張します。(これは「小御所会議」とも呼ばれています)

一方、慶喜は家臣の暴発を防ぐため、守護職・松平容保、所司代の桑名藩主・松平定敦と共に大坂城に引きます。大名会議で土佐藩と越前藩が擁護してくれると高を食っていた可能性もあります。実際この時、各国公使に接見し、「大名会議の後は、自分が首領に選ばれる」と説明しています。

しかし、事態は慶喜にとって最悪となります。

大号令があったその夜に開かれた大名会議。土佐藩・山内容堂の異議にも関わらず、新政府から慶喜を完全に排除することが決定したのです。その瞬間、慶喜は国事の中心から脱落することになりました。

鳥羽伏見の戦いの発端は江戸?

薩摩藩の強引な戦術で窮地に立たされた慶喜。そんな折、江戸で起きた事件を知ります。

12月25日、幕府側が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたのです。江戸ではそれまで複数回、薩摩藩が関係する放火や強盗などが起きていたため、幕府側がついに動いたのでした。

これで、幕府と薩摩藩との激突が決定的になりました。

二条城にいた慶喜の家臣たちは、江戸の状況を受けて一気に好戦的に。そして、1月3日、勢いに押されるように慶喜自ら「薩摩を討伐」を宣言してしまいます。

幕府の軍勢は、大砲22門を含む総勢1万人に及んだといいます。対する「新政府軍」は、薩摩藩が総勢3000人、長州藩が約1000人。その他の藩兵を合わせても5000人にも満たなかったようです。

苦しい戦いが予想されましたが、薩摩藩としては絶好の機会を得たことになります。戦いは3日夕刻に伏見市街で始まりました。そして5日には下鳥羽で会津藩らが薩摩・長州藩と激突。

しかし、幕府軍の戦況は悪く、6日には大阪に退却してしまいます。なぜ優勢の幕府軍が、数日で劣勢に陥ってしまったのか?その主な理由は2つです。

① 慶喜は和議と戦いの両面で構えていたため、戦術をしっかり固めていなかった。実際、越前藩・松平春嶽の斡旋で慶喜の入京の朝命が出ていた。

②薩長にとっては負けたら本当に終わりの戦い。その危機感は相当のものだった。対して慶喜は楽観的過ぎた。薩摩は孤立しており、長州に至っては朝敵。それに対して、越前、土佐、尾張、肥後、安芸の諸藩は味方だと思っていた

幕府が劣勢になった途端、薩摩が主導する「天皇の新政府」が実現可能になり、様子を見ていた諸藩が慶喜を支持しなくなりした。

誰もが大阪で大戦(おおいくさ)が起きるを予想していました。しかし、6日夜、慶喜は側近と共に密かに大坂城を脱出。海路、江戸に帰ってしまったのです。

なぜ、慶喜は敵前逃亡したのか?

江戸へ逃げる慶喜 (出典:Wikipedia 月岡芳年『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』)

後年、慶喜が「卑怯者」とか「臆病者」と呼ばれるきっかけになったこの行動。晩年、慶喜自身はこの時のことを語っています。

「軍を京に送るつもりはなかった」

これは何を意味するのか。それは、「天皇に矢を射ることをしたくなかった」ということではないでしょうか。戦いの目的は、あくまで薩摩藩の排除でした。しかし、薩摩藩が錦の御旗を掲げて天皇のもとで挑んできたら、話は違います。

若き日に、父・斉昭から尊王攘夷をたたき込まれた慶喜。時代の急速な流れで攘夷は果たせなくなりましたが、

尊王の精神は守りたかったのでしょう。

ですから、自分は潔く退却することを決断したのではないでしょうか。まだ戦意が残る大軍を置き去りにしたのは、彼らを説得するのは難しいという判断からかもしれません。

「天皇の新政府には服従する」

江戸に戻った慶喜も、この本心を隠したままだったようです。フランス公使のロッシュと3度にわたって会談しましたが、恭順の意向は示していません。

そして、2月5日、春嶽への嘆願書で新政府に対する恭順を示すと、上野の寛永寺の四畳半の狭い部屋で謹慎を始めました。(安政の大獄の時と同じ、極端な謹慎ぶりです)

2か月後、幕臣の勝海舟と薩摩藩の西郷隆盛の会談で江戸の無血開城が決まり、慶喜は水戸に移動。その後、駿府(静岡県)に移り住みました。謹慎処分が免除となったのは明治2年9月28日。慶喜はまだ33才でした。

最後の将軍は、「尊王精神と徳川家への思いに翻弄された」と言えるのではないでしょうか。■

【徳川慶喜】の実像③「最後の将軍」は在職1年で何をやったのか?