必読!【徳川家康】天下人の才能、実は幼年~少年時代に育まれた
2023年の大河ドラマは、「どうする家康」。2020年の「麒麟がくる」以来、3年ぶりとなる戦国時代が舞台です。
主人公は、織田信長、豊臣秀吉と並ぶ、戦国の3大英傑のひとり、徳川家康です。ただでさえ人気のある戦国時代を描くわけですから、大河ドラマを見るのを一時停止していた人も、戻ってくることでしょう。
大河ドラマで家康が主人公となるのは3回目。
最初は1983年の「徳川家康」。そして2回目が2000年の「葵 徳川三代」。そして今回の「どうする家康」。意外と少ないですが、脇役での登場となると8回にも及びます。戦国ドラマで欠かせない“脇役”です。
そんな誰でも知る家康。「たぬきおやじ」というイメージが強いようですが、冷静どころか結構気の短い人物だったとも言われています。そして気になるのが、
なぜ、戦国時代を生き抜き、天下を取ったのか?
その疑問を鍵は幼年~少年時代にあると思われるですが、「どうする家康」は19歳の時に参加した桶狭間の戦いからスタートし、子供の頃の姿は回想で描かれるようです。しかし、家康の実像を知るには、それでは十分ではないのではないか。
そこで、今回は家康のその生い立ちについて、シンプルかつ分かりやすくご紹介しましょう。(人物名には大河ドラマで演じる俳優名を添えました。敬称略)
実は暗いだけの子供時代ではなかった?
「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」。これは家康(演:松本潤)の性格を表した有名な川柳ですが、家康は天下人になるまで「我慢」の連続だった印象があります。実際、生まれてから19歳までは、
表面的には「悲惨な境遇」にありました。
なぜそんな目に合うことになったのか。その原因を知るためには、彼の祖父の時代に遡る必要があります。
祖父・松平清康は、若武者でありながら戦(いくさ)に長けた武将だったようです。20代そこそこで、三河(愛知県東部)の西半分を完全に支配し、西隣の尾張(愛知県西部)をも伺う勢いを見せていました。
しかし、松平氏の不幸は突然やってきました。
1535年12月の尾張攻めの際、清康は家臣に殺害されていまいます。その時25歳。さらに嫡男だった家康の父・広忠(演:飯田基祐)は、わずか10歳。分家の松平信定に居城・岡崎城を追われて、伊勢に逃げ延びることになったのです。
つまり、広忠は家康と同じように、子供の頃から不遇な体験をしているのです。そんな広忠を救ったのは、
駿府(静岡県中部)の大名・今川義元(演:野村萬斎)です。
信定を退け、広忠を再び岡崎城に戻しました。しかし、これで松平氏は完全に今川氏の勢力下に置かれることになりました。
それでも不安定な三河が混乱状態のまま。これを契機と見た信長の父・織田信秀(演:藤岡弘,)は、松平氏のかつての本拠であった安城祥城を攻め落とし、更に岡崎周辺の武将を寝返らせようとします。これに危機感を持った義元は、広忠への支援を強めます。そんな緊迫の時に、
松平家の嫡男として家康が岡崎城内で誕生。
1543年12月26日(つまりうさぎ年生まれ)でした。幼名は竹千代。母は、緒川城主であった水野忠政の娘・於大(おだい)の方(演:松嶋菜々子)。しかし、忠政が翌年、亡くなり、家督を継いだ信元(演:寺島進)が信秀と同盟を結んでしまいます。今川氏との関係もあって、信忠と於大の方は離縁。
3歳にして実母と離れ離れとなったのです。
まもなく、今度は広忠自身に苦難が舞い込みます。織田氏と繋がっていた広忠の叔父・松平信孝らの策略によって岡崎城から追い出されてしまったのです。それほど、この頃の松平一族は分裂状態でした。
“人質”として、たらい回しに
再び広忠は、義元にすがります。義元は加勢する代わりに、6歳の竹千代をあけ渡すように要求。
竹千代は、人質として駿河(静岡県)に送られることに。
しかし、その途上、織田氏に寝返っていた広忠の後妻の父・戸田康光の策略によって、こともあろうに尾張の熱田(現在の名古屋市熱田区)に送られてしまったのです。(1947年)
(注:近年、もともと竹千代を信秀に敗れた広忠が、人質に差し出したという異説もあり。今後の研究・調査が待たれます)
竹千代を手に入れた信秀は、広忠に今川氏からの離反を要求。しかし、広忠はそれまでの今川氏との関係を重んじ、こう言ったといいます。
「竹千代を殺すも、生かすも、好きにしろ」
幼い竹千代はどう思ったでしょう。ただ、物心が付いた時、この父の決断から、「一族を守るためには、家族をも犠牲にする」という当主としての非情な心構えを知ったことでしょう。
★これが、後の正室(瀬名)と長男に対する決断に繋がります。
それから暫く、竹千代は織田氏の人質として暮らします。この時、母・於大の方から衣類などの差し入れもあったといいます。
この時、のちの盟友となる信長(演:岡田准一)と対面した可能性もあり、その野性味あふれる悪童の姿が、竹千代に相当なインパクトを与えたのでは、と考えてしまいます。
★これが、長く続いた信長との「清須同盟」の礎になったかもしれません。
1949 年、今川氏の加勢を得た信忠は、織田軍を押し返している途上、家臣に腹を刺された後、亡くなってしまいます。わずか24歳でした。
「岡崎が織田氏に取られてしまう」。危機感を持ったのは義元は、すぐさま軍師の太原雪斎を岡崎城へ送り、動揺する松平一族を抑えさせ、織田勢を安城祥城まで押し返しました。この時、生け捕りにした信秀の長男・信広(信長の兄)との交換という形で、竹千代を奪い返しました。
竹千代(8歳)は、今度は駿府に連れて行かれます。
この後、10年近く義元のもとで、暮らすことになります。
竹千代は“人質”ではなかった?
今川氏の人質となった竹千代。「人質」と聞くと、さぞ虐げられた生活を送ったであろうと想像します。しかし、実際はそうではなかったようです。むしろ大切にされ、
英才許育さえも授けられたのです。
義元は竹千代の指南役を大原雪斎に任せました。優秀な僧侶であった雪斎は、義元の父・氏親の依頼を受けて義元の教師役も務めました。義元が当主となると、最側近として隣国との交渉や戦で大きな役割を果たしていたのです。つまり、義元は、
竹千代に自分と同じ教育機会を与えたかったのです。
なぜ弱小大名の嫡男を、特別扱いにしたのか?雪斎は連れて帰る竹千代に優れた資質を見出し、義元に「この子は、きっと今川家の助けになる」と進言し、雪斎に絶対の信頼をおいている義元は恩師の言葉を信じたのでしょう。
★竹千代は、雪斎の英才教育により天下人へのノウハウを習得したのです。
そんな竹千代、どんな性格の子供だったのでしょうか。大河ドラマ「どうする家康」では、自信を持てない軟弱な男の子として描かれていましたが、
実際は真逆だったようです。
それを物語る逸話が残っています。竹千代が人質になって一年後の正月。義元の屋敷で家臣たちが“お館様”を待っていると、同席していた竹千代が、突然、立ち小便をしたのです。かなりわんぱくだったと思われます。つまり、
★竹千代は引っ込み思案というより、物怖じしない子だったと言えるでしょう。
元服~初陣で勝利
駿府での生活は、なんと12年に及びました。そして1555年(一説には翌年)、竹千代は元服し、「元信」と名乗ることになりました。「元」の字は、もちろん義元に由来しており、これも元康に対する特別待遇を物語っています。
その直後、元信は岡崎に一時帰郷を果たし、父・広忠の法要を執り行いました。若き当主の帰りを待っていた家臣は、岡崎城内に米や銭を蓄えていたほどであったといいます。
成人した元信をさらに取り込もうとしたのか、義元は自分の姪・瀬名(後の築山殿、演:有村架純)を元信に嫁がせて、縁戚関係を結びました。
この時、元信13歳、瀬名15歳。
翌年、初陣の機会が到来します。1558年2月、織田方に寝返った家臣の討伐を命じられたのです。「自分たちの若き親方様の戦」。家臣たちもさぞかし気張ったことでしょう。事実、敵の城に夜襲をかけて、見事にこれを落としています。
この勝利に義元は大いに喜び、旧領の一部を返還し、名前を「元信」から「元康」に変えることを許しました。「康」の字は、祖父・清康に因んいて、予てから望んでいたようです。その後の戦でも元康は戦果を上げましたが、元康の岡崎城へ帰還することを許されませんでした。
義元はどこかで元康を警戒していたかもしれません。
人生の転機~桶狭間の戦い
1560年5月、長年争ってきた織田氏と決着をつけるため、義元は自ら2万5000の大軍を率いて西に出陣しました。その先発隊として元康(19歳)も兵1000(諸説あり)を引き連れ参戦。役目は最前線、今川側の大高城に兵糧を運ぶことでした。
元康はその途上で、母・於大の方を訪れ、約16年ぶりに再会を果たしたとも言われます。立派な若武者となった息子を見て、母はさぞかし嬉しかったでしょう。
大高城の周りは織田勢が取り囲んでいて、そこを通って兵糧を運び入れることは至難の業。しかし、元康軍は敵の中を突破して、無事城にたどり着きました。(5月18日)さらに翌日、織田方の丸根砦を攻撃し、見事に落として見せたのです。これを知った義元は、息子の活躍のように喜んだようです。
しかし、衝撃の出来事が起きます。
大高城を目指す義元本隊。途上の桶狭間の田楽ヶ窪の辺りで休息を取っているところを、信長の兵、僅か2000の奇襲を受けました。義元は首を取られ、今川軍は大混乱。散り散りとなって退却したのです。
伝令で義元の死を知った元康は、それを信じられずにいましたが、ついに退却を決断。側近など30人と共に東に向かいました。その途中で、織田勢に出くわしますが、巧みに交渉して突破。本来なら駿府に戻るところを、家臣の勧めで岡崎を目指したのです。
★育ての親の突然死に続く生死を分ける決断は、貴重は経験になったはず。
先祖の菩提寺である大樹寺に入った元康。周りには敵兵が取り囲んでいいました。遂に運も尽きたと感じた元康は、自害を決意したとも言われます。
その時、元康は運命的な言葉を授かります。大樹寺の住職・登誉上人(演:里見浩太朗)からのものでした。それは、「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」。現代語訳すると・・・
「戦乱の俗世を平和な浄土に変えよ」
★この時、仏から使命を授かり、天下人への道筋が定まったかも知れません。
それから3日後、本拠とする岡崎城に居座っていた今川勢が、駿府に向うために退出。これを好機と捉えた元康は、
無事岡崎城に帰還したのです。
しかし、桶狭間の戦いを堺に、元康は大きな帰路に立たされます。劣勢になりつつある今川側に残るか、それとも勢いを増す織田側に鞍替えするか。その成り行きは次回にご紹介します。■
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