鎌倉殿の13人【北条政子】尼将軍の実像~なぜ息子を殺したのか?
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。主人公は鎌倉幕府の第2代執権、北条義時。しかし、
影の主人公は、北条政子です。
鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝の正室。そして、2代将軍・頼家、3代将軍・実朝の母です。
しかし、政子の存在はそれだけで収まりません。父・時政と共に、頼朝と御家人の間を取り持ち、頼朝亡き後、
幕政に少なからず影響力を持ちました。
それは、単に北条家の一員といういレベルではなく、後に「尼将軍」と呼ばれるほど、鎌倉幕府の精神的な土台づくりに貢献したとも言えます。
当時は今とは比べ物にならない程、男社会。その中で、いくら筆頭一族であっても、女性として政治に関わることは、並大抵の気持ちの強さでは叶いません。
一方で、幕府と北条家への思いが強かったせいで、政子の息子たちが短命に終わったとも言えそうです。後年政子はこう振り返っています。
「私ほど不幸な人間はいません」
幕府の中で存在感を示していた北条政子の正体、そして息子を殺し、父親を追放した真意に迫ってみたいと思います。
政子の視点に立てば、ドラマも一味違う見方ができるかもしれません。
★人物には「鎌倉殿の13人」で演じる俳優名を記しています。
政子は、どんな女性だったのか?
政子(演:小池栄子)は1157年、伊豆半島の地方豪族の長、時政(演:坂東彌十郎)のもとに長女として生まれました。時政は、自治体職員のような在庁官人を務め、時には御所の警備のために自費で京に出向きながも、地元の民を率いていました。
政子は、そんな父の真摯な姿を見て育ちました。
兄弟には兄の宗時(演:片岡愛之助)、弟に義時(演:小栗旬)の他、二人の妹、阿波局(演:宮澤エマ)、時子がいたと言われています。
時政は、周りの状況に気を配り、問題から解決策を見つけ、それを決断する能力を若い政子に見出しており、事あるごとにこう言っていました。
「お前が男だったらな・・・」
そんな政子が惚れたのが京からの流人・頼朝(演:大泉洋)でした。当時、彼には妻がいました。これは時政の上司で本家の主ともいえる伊東祐親(演:浅野和之)の娘・八重(演:新垣結衣)です。頼朝は祐親から逃げて、政子と出会います。
そして政子は、八重に直接、頼朝と別れるように迫ったというのです。今で考えたら、愛人の妻のところに行って離婚を迫るといったところでしょうか。なかなかできるものではありません。やはり政子は、
相当強い気持ちを持った女性だったようです。
一説には他に政子の結婚相手を決めていたいう時政。その反対を押し切って頼朝と結婚した政子(20歳)は、純情だったと言われていますが、その後の頼朝の出世を考えると、人生を賭けた決断だったのかもしれません。なぜなら、
頼朝は、流人といえども源氏の直流ですから。
しかし、途端にその先行きが不透明になります。頼朝が平氏に対して決起して臨んだ「石橋山の戦い」(1180年)です。この戦いで頼朝の軍は無残に敗れ、兄・宗時は殺害されます。弟の義時はまだ17歳。政子は実家を支えていく責任を感じたのではないでしょうか。
実際この時、政子は、北条家の女性陣を率いて女人禁制の寺、伊豆山権現に入り夫の劣勢を静観。敗走した頼朝は、江戸湾を渡って対岸の安房の国に逃げたのですが、その間も動じず再起を待ち続けたのです。
頼朝の正室としての政子
その後、頼朝は東国の武士たちを引き連れて鎌倉に入ります。そこへ政子たち女性陣も、伊豆から合流。ここから彼女は正式に「御台所」(みだいどころ)、つまり「奥方様」と呼ばれ始めたと考えられます。
頼朝との間に生まれた子供は4人。
長女・大姫、長男・頼家、二女・三藩(久姫)、そして次男・実朝です。すべて20代前半までに亡くなっています。政子が母として辛い思いの連続だったことが想像されます。(孫も一人を除いて若死にです)
まず長女・大姫。当時、最初の女の子供を「大姫」と呼ぶことが多く、大姫が本名であったのか分かりません。別に源氏の守護神社である八幡神社から「幡」を取って一幡と呼ばれていたという説があります。(実際、孫娘はそう呼ばれています)
頼朝は、従兄の源義仲(演:青木崇高)と同盟の証に、嫡男・義高(演:市川染五郎)を鎌倉で預かります。そして大姫と許嫁とするのですが、二人は本当に仲むつまじくなったようです。
しかし、1184年、頼朝は義仲を粟津原の戦いで破ると、遺恨が残るとして義高の殺害を命令。娘の気持ちを察した政子は、
「命だけは、助けてあげてください」と懇願。
しかし、義高は討たれてしまいます。この時、政子は深く悲しんだでしょうが、同時に日本の権力を争う人物を夫としたことを思い知ったことでしょう。
頼朝が1192年に急死すると、政子は出家して尼に。(47歳)しかし、2代将軍に就いた頼家は若干18歳。政子は仏門に入るどころか、否応なしに政権の中枢に入ることになるのです。
息子殺しの真相とは
将軍職を引き継いだ頼家。彼は幼いころから、北条家のライバル、比企氏の家中で育てられたため、当然のように当主・比企能員(演:佐藤二朗)の助言で動きます。そして政子は、「比企氏による政権の乗っ取り」のうわさを耳します。
「北条家が危ない」
政子から一族の危機を知らされた時政は、能員をだまし討ちにします。頼家は将軍職から引きずり降ろされ、出家して伊豆の修善寺に追放。一年後に北条家の者によって殺害されますが、それを
「政子も容認していた」と言われています。
自分の実子を亡き者に。若い将軍の暴走を防ぐために、御家人たちの13人の合議制が敷かれていたものの、「息子を外戚の思いのままにさせてしまった」。息子の殺害は、政子のある意味、悲しい決断だったことでしょう。
次男の死にも関わったのか?
頼家に代わって将軍になったのは、幼子の次男・実朝。乳母は政子の妹、阿波局。今度こそ北条家が中心となって、幕府を率いていくはずでした。しかし、今度は“身内の反乱”が起きます。
首謀者は、父・時政です。
頼家亡き後、初代執権として幕府のトップに立った時政。それを利用して、実朝を排除し、継妻の牧の方(演:宮沢りえ)との間にできた娘・の婿を、将軍職に就かせるという謀略を企てます。
父の暴挙に再び政子が動きます。
実朝の身を確保すると、時政と牧の方を伊豆に追放。時政の代わりに執権に付いたのは弟・義時。政子との「二頭体制」になったと言えます。
あくまで源氏の直流である実朝守り、北条家が幕府を引っ張っていくことを内外に示すことになったのです。しかし、しばらくして
再び政子に“不幸”が。
頼家の遺児だった次男・公暁(演:寛一郎)は、政子の恩情によって幼くして出家し、鶴岡八幡宮に入っていました。
1219年、2月。誰にけし掛けられたのか。公暁は、朝廷から右大臣を拝命したばかりの実朝(当時23歳)を八幡宮を襲撃、殺害してしまったのです。
政子の落胆は、いかばかりだったのでしょうか。この時の政子の心情を、鎌倉時代について書き記した「吾妻鏡」で察することができます。
ただ一人残った息子・実朝を失い、これで終わりだと思った。尼になった自分が、こんなに辛い世を生きなければいけないのか。淵瀬に身を投げようかと思った。
「吾妻鏡」より
御家人たちの母になった政子
頼朝の遺子を全て失った政子。それでも、鎌倉幕府の重鎮として、その重責を果たしていきます。
頼朝直流の血が途絶えた幕府。実朝が殺害されたことで、後鳥羽上皇(演:尾上松也)は皇子を4代将軍として幕府に送ることを拒否。代わりに藤原家から幼子を授かりますが、ここにも政子の尽力があったようです。
しかし、生前、実朝が築いていた後鳥羽上皇との信頼関係もなくなり、朝廷の幕府に対する姿勢が硬化。1221年5月15日、全国に義時追討の院宣が発出されます。
鎌倉の御家人たちは、朝敵になることを恐れ動揺します。そこで、
政子が檄を飛ばしました。
亡き頼朝様への多大なご恩を忘れましたか。裏切者の言葉によって不義の命令が下されたのです。その者を討って、実朝の遺志を全うしましょう。
坂東武者たちを再び団結させた尼将軍。そして、朝廷に弓を弾くことへの後ろめたさを、うまく説き伏せます。
相手軍に上皇様がおいでなら、戦わず帰れ。おいでならなかったら、躊躇なく戦うように。
この言葉で、心を一つにした幕府軍は、19万の兵で出陣。3つのルートで京に上り、途中で朝廷軍と激突(承久の乱)。最後は京で後鳥羽上皇を降伏に追い込み、鎌倉幕府の存続を確かなものにしたのです。
1225年、68歳でなくなった政子。一地方の豪族の娘としては、予想もつかない人生を歩みました。その彼女の内面にあったのは、最初の挙兵の際に亡くなった兄・宗時の遺志を守ろという「一族愛」だったのではないでしょうか。■
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