【豊臣秀吉】天下統一までの道①~出世の原動力は明智光秀?

【豊臣秀吉】天下統一までの道①~出世の原動力は明智光秀?

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。主人公は信長の腹心でありながも、結局裏切ることになる明智光秀ですが、ドラマの後半で活躍に注目が集まるのは、

光秀のライバルの豊臣秀吉です。

天下取りを目指す信長の絶対的な信頼を得て、家臣のトップ争いを繰り広げた二人。ただ、その二人の結末は、天と地ほどの違いとなりました。光秀が「三日天下」(実際は約10日)に終わったのに対し、

秀吉は、なぜ天下人になることができたのか?

その疑問を解くため、雑用係から天下人という下剋上を実現させた出世街道を分かりやすくご紹介します。今回は、その前半。天下人になるはずだった織田信長が倒れた本能寺の変までをお届けします。

信長への仕官~先見の明か運命か

生まれは1537年2月、光秀より9歳年下(諸説あり)。出生地は、尾張の中村郷中村(名古屋市中村区中村)、現在の中村公園内と言われています。

農民の出身と伝えられていますが、当時は農民であっても戦の場合は兵士として出向いたものです。実際秀吉の父親は織田信長の父・信秀の足軽だった説が有力になっているようです。

中村公園(秀吉清正公園は愛称)

母親は、なか。父は幼いころに亡くなっており、秀吉は継父になじめず光明寺(名古屋市中村区)に預けられたようです。その後、寺も出てしまい、15歳の時には尾張内で物売りをしていたという話もあります。

しかし、出生や幼年期については諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。

ただ秀吉は様々なテレビドラマでも描かれるように、上昇志向が強い若者だったらしく、当時勢いがあった駿河の今川氏家臣・松下之綱に3年ほど仕えました。そのあと、秀吉は人生を決定的にする選択をします。それが…

織田信長への仕官です。(1554年)

これを単に「運命」と片付けるのは、いかにも後付けです。たしかに、今川の家臣に仕えるのを辞めた原因は、他人の妬みという説もあり、本人の意思ではなかったかもしれません。しかし、当時、まだ地元さえも掌握できない地方大名の信長を選んだのは、秀吉の先見の明、つまり才能だといえるのでは?

この時、秀吉18歳。与えられたポジションは武将に仕える小者(こもの)、今でいう“雑用係”です。まさに下っ端からのスタートだったと言えます。当時の信長は、織田家を継いで4年足らずの若干21歳でした。

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1554年(17歳) 小者(こもの)=雑用係

そして7年後の1561年、信長の家臣、浅野長勝の養女・ねね(後の北政所)と結婚。この時、秀吉は足軽頭になっていました。

1561年(24歳) 足軽頭 =小部隊の隊長

上昇志向があっても所詮は農家の出身。武術に長けていたようではなく、その代わりに生かしたのが、

人を説得する力です。

当時、信長の一番の懸案事項だったのが、父親の代から宿敵であった美濃の斎藤氏をどう倒すか。そこで秀吉は、実権を握っていた斎藤道三の孫・龍興を支えていた部将らを調略していきます。

1566年には、仲間に引き入れた美濃衆の力を借りて、美濃の要所・墨俣(岐阜県大垣市)に流れる長良川の中州に城を短期間で作り上げました。これが俗に言う…

一夜城」こと墨俣城の築城です。

稲葉山城は、後に岐阜城と改名 © Google
© Google

これが契機にもなり、信長は龍興の粉砕に成功。美濃を手中に収め、斎藤氏の稲葉山城を岐阜城と改名し、本拠地としました。

この頃には、秀吉は足軽頭から部将の一人になっていたと思われます。これは美濃の軍師として名高い、竹中半兵衛(竹中重治)を与力(側近的ポジション)にすることを信長から許されたことからも分かります。

1567年(30歳)あたり 部将 =部隊の隊長

(信長の家臣として十数年。持ち前の行動力と洞察力で、古参の武将たちとの能力差を見せた秀吉。この後は、本当の意味での真価が問われていくことになります)

奮闘し有力部将に~ライバル光秀との競争

地元周辺を制圧した信長は、翌年、足利義昭の要請を受けて上洛。秀吉も従軍し、途中、近江で障害となった六角氏との戦い(観音寺城の戦い)でも活躍したようです。

(この頃、秀吉のキャリアに影響を与える人物が現れました。それが、明智光秀です。義昭と共に現れた光秀を信長は自身の家臣として登用。つまり、優れた部将と認め、中途採用したわけです。これが秀吉を刺激しないわけがないでしょう)

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信長軍に守られて京都に入った義昭は第15代将軍に就任し、それを成し遂げた信長の存在感は全国に広がりました。同時に秀吉も単なる家臣の一人ではなく、重要な任務を任されます。それは…

京の守護職です。

新しいライバルの光秀と共に、京の奉行的存在として都の政治に関わることになった秀吉。しかし、地方出身の若武者にとっては重荷だったと思われます。それにしても、大抜擢です。

1568年(31歳) 京の守護 =首都の政務官

翌年、秀吉は軍事面でも責任が重くなり、初めて大軍を任されれます。毛利元就の依頼による但馬国(兵庫県北部)への出兵です。この時、秀吉は総大将となり2万の兵を率いました。10日間で18城を落としたとも言われ、

軍隊の指揮官としても結果を出しました。

京の実権と幕府を手中に収めた信長は、その権威を確実にするために、諸大名に服従を示す上洛を求めます。これに従わなかった有力大名が朝倉義景です。信長は幕府に盾突くものとして討伐を決意します。

1570年4月、秀吉や光秀も加わった織田軍は越前に向けて出兵。攻勢のまま義景の本拠、一乗谷に攻め入ると見られていました。ところが、北近江の浅井長政が、信長との同盟を反故にて出陣。一転、織田軍は南北を敵に挟まれ、窮地に立たされます。

信長は急遽、京の撤退を決断しますが、その時、殿を務めたのが秀吉でした。信長を無事に逃がすと、襲い掛かる朝倉・浅井勢を光秀、そして徳川家康らと抑えたのです。「金ヶ崎退き口」と呼ばれています。

金ヶ崎城退き口 © Google

この時、秀吉は討ち死にの可能性がありました。

もしこの時、信長が倒れていたら、歴史は大きく変わっていたでしょう。それをさせなかった秀吉と光秀は、まさに才能ある部将同士がなせる業だったかもしれません

20年で掴んだ一国一城~光秀には2年遅れ

九死に一生を得た信長は、3年余りをかけて朝倉・浅井攻めを貫徹します。秀吉は浅井勢との最前線、横山城(滋賀県長浜市)を任されたり、京都に出兵したり奔走しました。

この辺りから、信長はより冷徹になります。それを表すのが、朝倉・浅井氏と共闘していた天台宗の総本山、比叡山延暦寺のせん滅です。

この決断ばかりは信長の家臣たちも動揺したようですが、いまさら信長に歯向かうことはできません。有力部将になっていた秀吉にも命令が下り、1571年9月に行われた焼き討ちに参加。この戦いでは、僧兵だけなく、比叡山に住む庶民まで殺されることになりました。

(この時、信長が命ずるまま、積極的に作戦を遂行した光秀とは対照的に、秀吉は女や子供をこっそり逃がしたという逸話があります)

その勢いをかって、1573年8月、信長は朝倉氏を打ち破り、続いて裏切り者の浅井長政の討伐に移ります。この時の先兵を任されたのが秀吉。浅井氏が籠城するなか、長政に嫁いでいた信長の妹・お市と娘三人を救い出します。

浅井氏は1573年9月に滅亡。秀吉は北近江を与えられて長浜城を築城し、一国一城の主となりました。この時、秀吉は41歳です。(ライバルの光秀に2年遅れ)

1574年(37歳) 大名 =地方政府の長

長浜城

(信長の天下布武のために必須だった朝倉・浅井討伐で、これまで以上の活躍を見せた秀吉。光秀とならび、織田軍団のトップ2となったようです。この後、ライバル同士の出世競争は熾烈になっていきます)

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国持となって城下の統治を行い、かつこれまで以上に戦へと出陣する秀吉。石山本願寺合戦なども参加し、越前の一向一揆攻め紀伊の雑賀党討伐の際には、

ライバル光秀と共に戦い、武運を高め合います。

しかし、この後、大きな失態を犯します。越後の上杉勢に備え、加賀(石川県)に陣を張っていた柴田勝家を応援するため赴いた秀吉は、勝家と意見が合わず対立。信長の命に背いて離脱したため、叱責を受けました。

しかし、戦線を拡大する信長軍の中において、秀吉はもはや欠かせ存在になっていたのです。すぐさま謀反を起こした松永久秀の討伐に加勢して、成果を上げました。

中国攻めの総大将~出世の総仕上げへ

1577年10月。いよいよ信長から秀吉に大命が下ります。西の強豪・毛利氏との対決となる中国攻めの手始め、播磨(兵庫県南西部)攻めを任されたのです。

1577年(40歳) 中国攻め総大将 =方面軍司令官

ここでも秀吉はお家芸である調略作戦を展開。正面切って敵を撃破するのではなく、有力な部将の人質を取って服従を迫り、播磨を中国攻めの拠点としました。また懐柔できない場合は、上月城の戦いのように着実に討ち果たしていきました。

そうしたなか、織田家に反旗を翻したのは播磨の三木城(兵庫県南部)を居城とする別所長治。これは直接対決するのではなく、

兵糧攻めで落としました。

そして、戦いは北の但馬(兵庫県北部)に移ります。懐柔できた大名もいましたが、山名祐豊のように抵抗する者もいました。秀吉はこれを討ち、此隅山城を落城させ、弟の秀長を新たに作った有子山城主として収めさせました。

秀吉が攻めた城 © Google

当初は但馬の住民は秀長に従わないと思われましたが、山名氏の嫡男を受け入れ、また長浜城下を収めた経験を生かしたのか、大きな反乱もなく秀長の統治はうまくいきました。

しかし、1581年、山名氏の家臣団が、北上して鳥取城で反旗を翻しました。この時も、秀吉は戦いは避け、兵糧攻めを行い、落城させました。同年には淡路国の岩屋城を落として支配下に置いています。

着々と本丸の毛利氏に近づく秀吉。しかし翌年、手ごわい相手が立ちはだかります。備中高松城(岡山県南部)に鎮座する毛利勢の清水宗治です。ここで秀吉が取った戦術は、またしても兵糧攻め。それも、今回は城を水没させる

高松城水攻めです。

(秀吉の戦い方は、単に武力をもって相手を制するのではなく、味方の兵にできるだけ損失が出ないことを第一に考えていたようです。それはまるで「孫氏の兵法」。まず、相手の調略を試み、それでもだめだ場合でも直接対決ではなく、兵糧攻めにして相手が屈服するまで待つ。高松城の水攻めは、その最たるものでした。このあたりの巧みさは、光秀より優れていたかもしれません)

備中高松城址 

城の西側に堤防を短期間で作ったうえで、脇を流れる足守川から水を引いて城を水没させようという作戦です。堤防の長さは、3キロにも及んだとも言われています。しかし、事態は緊迫しています。なぜなら、毛利氏からの援軍、吉川元春・小早川隆景の軍が迫っていたからです。

水に浮かぶ高松城を挟んで対峙する秀吉軍と毛利軍。そんな時、とんでもない一報が、秀吉にもたらされたのです。

「信長、本能寺で討たれる」

・・・【豊臣秀吉】天下統一までの道② に続く。■