2分で分かる!朝ドラ「エール」の主人公モデル【古関裕而】の生涯

2分で分かる!朝ドラ「エール」の主人公モデル【古関裕而】の生涯

NHKが放送する朝の連続テレビ小説。ストーリーは、時々オリジナルになることもありますが、大体が歴史に足跡を残した人物をモデルにしています。

しかし、大河ドラマのように教科書に載るような超有名人でもなく、ドラマの内容を自由に変えられるように名前が変えてあるのが普通です。

2020年度上期のNHK朝の連続テレビ小説「エール」。今回の主人公は夫婦二人ですが、モデルなった実際の人物は次の通りです。

古山裕一 …モデルは、作曲家の【古関裕而(こぜきゆうじ)

関内 音 …モデルは、声楽家の【内山金子】(うちやまきんこ)

古関裕而さんは、昭和を通して活躍した作曲家ということもあっで、今ではその名を知る人は少ないでしょう。しかし、彼が世に残した曲は・・・

実に約5000曲にも及びます。

夏の甲子園の行進曲など、日本人なら一度は聞いたことがある曲のオンパレードです。

今回は古関さんの生涯を分かりやすく2分で紹介したいと思います。これを読めば、きっと朝ドラ「エール」を更に興味深く見ることができるでしょう。(敬称略)

子供時代から無類の音楽好き

生年月日は1909年(明治42年)の8月11日。福島県・福島市の呉服屋「喜多三」の長男として生まれました。つまりお坊ちゃんですね。それが功を奏して幼くして音楽との出会いに恵まれます。それを担ったのが・・・

父が買った蓄音機です。

大正時代、都会でもない福島で蓄音機がある家庭は稀だったでしょう。古関は、小さい頃から浪曲から吹奏楽まで、さまざまな音楽を浴びるようにして育ったと思われます。

そして、小学校時代、早くもキーパーソンが現れます。それは・・・ 

担任の遠藤先生です。

遠藤先生は音楽教育に熱心で、音楽センスがあふれる古関少年は10歳にして楽譜が読めるようになりました。

1922年、家業を継ぐことを考えて地元の商業学校(今の商業高校)に入学。しかし、音楽への思いは募るばかり。当時、日本のクラシック界の重鎮だった作曲家・山田耕作の楽譜を取り寄せて、独学で作曲を勉強していたそうです。

その一方で、家業の方は当時の昭和恐慌のあおりを受けて倒産。古関は呉服屋を継ぐ必要はなくなり、本人も「ほっとした」と後で漏らしています。

卒業すると、地元の銀行に就職。しかし、その傍ら・・・

プライベートではハーモニカのバンドで活動。

作曲から指揮まで担当して活躍。加えて、音楽仲間と近代音楽のレコードコンサートを開くなどして、あくまで生活の中心は音楽だったようです。また、山田耕作宛てに自分の楽譜を送り、直に意見も貰っていたといいます。

人生の転機は海外コンクール

そして、古関の人生を決定づけた出来事が1929年(当時20歳)に起きます。それは・・・

国際音楽コンクールでの2位獲得です。

古関は、「竹取物語」を題材にした舞踊組曲をロンドンの楽譜出版社が主催するコンクールに応募したのです。国際的な音楽コンクールで日本人が入賞することは初めてで、全国に報道されました。

この快挙は、古関のその後のキャリアを決定付けるだけなく、生涯の伴侶と巡り合うきっかけになったのです。相手となったは・・・

声楽家を目指していた、内山金子です。

愛知県豊橋市に住む彼女は、古関のコンクール入賞の記事を読むなりファンレターを送りました。その後、文通を経て、わずか3か月で結婚することになったおです。

早々と身を固めた古関は、当時コロンビア・レコードの顧問を務めていた山田耕作の薦めで同社の専属作曲家として契約。しかし、二人は上京するも古関の曲はなかなかヒットすることはなく、目指していたクラシックからもしばらく離れざるを得なくなりました。

応援歌で実力発揮

1931年、「応援歌の古関」を印象付ける依頼が舞い込みます。(ドラマのタイトル「エール」はここからきています)。それは・・・

早稲田大学の応援歌の作曲です。

当時、まだプロ野球は始まっておらず、野球と言えば大学野球でした。その中でも、早慶戦が人気を集めていました。その時、慶応に対して劣勢だった早稲田が、奮起を促すために新しい応援歌の作曲を古関に依頼したのです。

「若き血を圧倒することは全然考えず、自分の胸から湧いて出る旋律を書いた」という古関。彼が作曲した新しい応援歌「 紺碧の空 」の誕生を契機に、早稲田は慶応を倒すようになったといいます。まさに、面目躍如です。

しかし、その後しばらくの間、古関はプロの作曲家としてはブレイクできずにいいました。コロンビアから印税を前借りしながら凌いでいましが、1934年に初めてのヒット曲が生まれます。それは、クラシックとは対極にある

民謡調の曲・「利根の舟歌」でした。

そして翌年、同じジャンルの「船頭可愛や」が大ヒット。これをキッカケに、古関は一人前の作曲家として業界でも受け入れられるようなったのです。

そして早稲田大学の応援歌の評判もあって、1936年にはいまも愛される別の応援歌を作曲しています。それは・・・

阪神タイガースの歌「六甲おろし」です。

大阪タイガース(当時)のチーム発足と共に作られたこの曲は、その後も歌い続けられ、今も試合中に球場内でファンによって大合唱されています。

その後、1935年には、最初の巨人軍の歌である「野球の王者」の作曲を担当しました。戦後、中日ドラゴンズの応援歌も作曲している古関ですが、本人自体はスポーツは苦手だったそうです。

(なお、巨人軍のために戦後、「闘魂こめて」も作曲しています)

戦時は軍歌、戦後はジャンルを拡大

一方、日本は大陸での戦争を拡大させていきます。それに合わせて、古関も戦時歌謡の曲を数々生み出すことになりました。彼の曲は単に勇ましい軍歌でなく、どこか庶民の哀愁が込められ、大衆の支持を得ました。

代表的なのが「露営の歌」(1937年発売)です。

勝って来るぞと勇ましく
ちかって故郷(くに)を出たからは
手柄たてずに死なりょうか
進軍ラッパ聴くたびに
瞼に浮かぶ旗の波

(作詞:薮内喜一郎)

古関は満州からの帰りとの途上で、作詞コンクールに入選したこの詞に感銘を受け、東京に着くまでに依頼もないまま作曲してしまったそうです。その後、会社から実際発注となったこの曲は、戦地に出征していく軍人の見送りの際に、駅で度々歌われました。

応援歌がもともと得意だった古関の作風は、気持ちを鼓舞しようとする兵士たち、それを送り出す国民の気持ちにピッタリ合ったのかもしれません。

1945年、日本は約300万人を犠牲にするという大きな痛手を負って敗戦。打ちひしがれた大衆のために、古関は作曲活動を続けます。

同年に放送されたNHKのラジオドラマ「君の名」の音楽を担当。放送時間になると町の銭湯から人がいなくなるという人気ドラマとなり、曲自体も大ヒットとなりました。

また舞台の音楽も手掛けます。今は亡き女優・森光子さんのライフワークだった「放浪記」などが有名です。

その一方で、スポーツ音楽の方でも名曲を遺しています。それが、夏になると必ず耳にする・・・

高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」です。

今でも夏の甲子園の際に流れるこの曲で、若者を励ます曲を書いたら天下一品という評価は決定的となり、全国から学校校歌の作曲依頼が飛び込むこといなりました。その数は、一説に全国350校以上と言われています。

集大成は五輪のあの曲

古関は映画にも楽曲を提供するようになります。東宝映画の怪獣シリーズの「モスラ」の中で、双子の小美人(ザ・ピーナッツ)が歌う「モスラの歌」がそれです。その後もモスラが登場するゴジラ映画のたびに、アレンジされた曲が使われています。

そして普段、頼まれても表面上あまり喜ばない古関が、「頼まれたときに非常に喜んだ」と振り返り、自身の集大成になったのが・・・

1964年の東京五輪・開会式で流れたオリンピックマーチ

日本調とのリクエストがありましたが、行進曲ということでそれが叶わない仕上がりになったようです。しかし、最後の部分に君が代の最後の下り、「こけのむすまで~」のメロディーを入れています。

その一方で、クラシック音楽への思いは強く持ち続けていました。ミュージカル「敦煌」での作曲を発展させ、交響組曲「敦煌」を作り上げています。

晩年は作曲より、フジテレビ系の音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員として知られていました。古関は、これを1984年まで務めあげたのち、2年後には作曲生活からも引退。

1989年の8月10日に80歳でこの世を去りました。■