鎌倉殿の13人【源将軍】は、なぜ僅か3代で終わってしまったのか?
1185年3月に壇ノ浦(現在の山口県下関市)で平家追討を完遂させた源氏。その戦いで活躍した弟・義経(演:菅田将暉)を討伐し、幕府での権力を盤石にしていった頼朝。
ところが、源家の直系の将軍はたった3代、約17年で終わってしまいました。
平氏に対する源氏という強大な敵対勢力あったわけでもないのに、なぜ非常に短い期間で終わってしまったのか。
さらに不可解なのが3人の死。頼朝の死因は不明。さらに息子の2人は殺害されています。これらの背景に浮かび上がるのが、
北条氏の思惑です。
そこで今回は、鎌倉幕府の初期を舞台に展開された権力をめぐる北条氏の闇に迫ります。
これを知れば、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を2培楽しめるはずです。(なお、人物にはドラマで演じる俳優名を記しています。敬称略)
初代・頼朝、権力を盤石に
平家を破って鎌倉幕府を開いた頼朝。その快進撃の裏で、権力強化に向けて冷淡に推し進めたのが、
粛清の数々でした。
平家追討に貢献した弟・義経を亡き者にし、彼を支えた東北の権力者・藤原家を滅亡に追い込んだことは学校で教わりますが、その他でも周囲の人々を潰しまくったのが頼朝です。
最愛だった娘の婿殺し
頼朝の粛清の対象になった一人は、義理の息子です。従兄・源義仲(演:青木崇高)の嫡男・義高(演:市川染五郎)。1183年以来、頼朝は義仲との絆の証として、11歳の義高を鎌倉に住まわせていました。名目は長女・大姫(演:落井美結子)の婿ですが、
つまり「人質」です。
翌年、義仲は頼朝の命を受けた義経に討たれます。頼朝は義仲の仇となることを避けるため、すぐさま義高の殺害を実行に移します。
それを察知した大姫。すでに心が通じ合っていた義高を逃がそうとしますが、頼朝の追っ手に捕えられて、
結局、殺害されます。
しかし、娘の純な気持ちを無視した強引なやり方に対して、頼朝は後年、代償を支払うことになります。
朝廷勢力の取り込み
全国の覇者であった平家を倒した頼朝。国の新たな支配者になるために、「何とかしなければいけない人物」がいました。それは、
後白河法皇(演:西田敏行)。
頼朝は、この一癖も二癖もある“日本一の大天狗”と、旧平家の領地をめぐって争います。それでも、丁々発止の末、1190年、幕府の管理下に置くことに成功しました。
そして2年後、法皇が66歳で崩御。これをきっかけに頼朝は、自分の政治力の拡充に向けて本格的に動きだします。まず第一歩は、拒み続けていた、
征夷大将軍に就任です。
日本全国の武家の棟梁としての地位を内外に知らしめます。そして関白だった九条兼実(演:田中直樹)に摂関政治を行わせ、鎌倉から遠隔操作。合わせて旧後白河法皇の勢力も一掃しました。
鎌倉では武家による初めての行政システムを整えます。それと同時に加速させたのが、身の回りでの粛清です。
ライバル・甲斐源氏を弱体化
標的になったのが、東国の一大勢力であった甲斐源氏です。当初、後白河法皇が頼朝勢より期待を寄せていた古豪です。
まず親方格の一条忠頼を謀殺。続いてその弟の武田有義と板垣兼信を排除。さらに平家攻めで義経と共に活躍した安田義定は、
謀反の疑いで梟首になりました。
その一方で「鎌倉殿13人」でたびたび登場した武田信義(演:八嶋智人)をはじめ、何人かは懐柔。登用して仕えさせるなど、巧みな手法で敵対勢力の謀反を防ぎました。
弟・範頼の排除
そして、粛清の矛先は身内にも向けられます。
1193年、頼朝が参加し、富士の裾野で巻き狩り(狩の競い合い)が開かれました。そこで頼朝に長らく臣従していた工藤祐経(演:坪倉由幸)が殺害される
仇討ち事件が発生。
犯人は頼朝によって斬首された伊東祐親の孫二人。事件の際、現場にいた頼朝の殺害の試みもあったことで、大名の多気義幹が追討を受けました。そして、鎌倉で留守を守っていた弟・範頼(演:迫田孝也)にも疑いが及びます。そして、
伊豆に流された後、殺害されます。
この件では、きっかけが範頼と政子(演:小池栄子)の会話だったと言われ、実父の北条時政(★演:坂東彌十郎)が黒幕であったという説もあります。
頼朝、計画途中で死す
頼朝が鎌倉での権力確立と同時に進めたのが、朝廷勢力の掌握です。その目的のため、娘の大姫を後鳥羽上皇(演:尾上松也)へ入内させようとします。
つまり「天皇の皇后候補」に、ということです。
1195年、上洛した際、政子と大姫を連れて、亡くなった後白河法皇の皇女とその生母・丹波局と再三にわたり面会。この時、長男・頼家(演:藤原響)も後鳥羽上皇に披露し、剣を授かっています。つまり2代目将軍への内定です。しかし、頼朝の計画が思わぬ瓦解となります。わずか2年後、
肝心の大姫が病死したのです。
そもそもの原因は、義高を失った心痛だったと言われてます。さらに翌年、今度は翌年、頼朝本人に災難が起こります。それはなんと、
落馬です。
相模川の橋完成の式典の帰り道での出来事でした。(あくまで「吾妻鏡」による)負傷したと思われる頼朝は、1か月も経たない翌年1月13年に亡くなります。
満51歳でした。
ところがおかしなことに、死因がいまだに不明なのです。天下の将軍ともあろう人物の死因が分からないとは、いつたいどういうことなのでしょうか。
一説には、脳卒中、または破傷風説などがありますが、当時の資料として一番著名な歴史書である「吾妻鏡」には、直接の死因が一切書かれていません。
【吾妻鏡(あずまかがみ)】鎌倉時代の歴史書。幕府の家臣の編纂による。1180年から1266年までの出来事が書かれている。ただし頼朝から3代の将軍については比較的辛めに、その後の北条氏の執権については高い評価を与えている。
ところが、3代将軍・実朝の時代に突然、「頼朝の落馬の話」が出てくるのです。このことから考えられるのは、主に二つ理由です。
注視したいのは、「吾妻鏡」が編纂されたのが北条氏による執権時代であること。つまり、推測②が有力かと思われ、そこには北条氏の関与の可能性がありそうです。
そうした“北条氏の闇”は、その後の二人の将軍、頼家と実朝の時世に浮き彫りになります。
2代将軍・頼家、権力闘争の罠に
頼朝が亡くなり、すぐさま2代将軍の座に就いたのは若干18歳の嫡男・頼家(演:金子大地)。北条氏の権力欲によって、短期間で引き釣り降ろされてしまいます。それでも頼家は、
「八幡太郎義家の再来」との言われました。
源義家は、頼朝から4代遡る祖先で、文武両道に優れた武将として名をはせました。平氏の地盤であった東国を譲り受け、新興勢力の象徴的な存在だったと伝えらます。
頼家は、身体も大きく、武芸に長けており、教養も備わっていました。将軍になると直ぐ、幕府内だけでなく、東国、そして京に対して政策を打ち出し、精力的に動きます。
御家人たちの反乱
しかし、その彼の足を引っ張つたのは、“頼朝が残した構想”でした。
30歳にして初めて生まれた頼家の養育を、頼朝は自分の古い縁者で任せました。それは自分の乳母・比企尼(演:草笛光子)の一族の者たちです。
乳母には河越重頼の妻(比企尼の娘)と平賀義信の妻(比企尼の娘)。そして頼家の側近には比企能員(★比企尼の養子/ 演:佐藤二朗)を付けました。
まだ若い将軍を支えるために、頼朝の身内同然の比企一族が中心になるのは当然と言えば当然の流れです。
これを面白く思わないのは、比企氏以外の御家人たちです。特に危機感を感じたのは、北条氏だったと思われます。なぜなら、頼朝生存の時から、北条家は正室・政子の実家であるだけで、
特に存在感がなかったからです。
将軍継承からわずか4か月後、宿老13人(”鎌倉殿の13人”=メンバーに★印)による合議制が成立。一説には頼家を支援する仕組みとも言われますが、
事実上の将軍の採決権はく奪です。
さらに頼朝時代から、頼朝の側近で頼家の乳母父であった梶原景時(★演:中村獅童)が失脚します。それまでの粛清の汚名をかけられ、他の武将から糾弾された後、一族もろとも滅亡させられました。
ここでも時政の暗躍があったという説も。
1203年、今度は頼家に北条氏の矛先が向けられます。5月、頼家は謀反の疑いにより叔父の全成(演:新納慎也)を殺害。さらにその妻で時政の娘の阿波局(演:宮澤エマ)を捉えようとしますが、母・政子に止められます。
それがきっかけになり頼家は追い詰められ、9月、将軍の地位から追われます。「吾妻鏡」は病気が原因だとしていますが、これをそのまま信じることは難しいでしょう。
この状況に、後見人でもある能員が頼家の復権を図ります。しかし、時政の謀略により、あえなく殺害されてしまいます。(「比企の乱」)ここから明白になるのは、
北条氏の権力への執念です。
流浪の落ち武者だった頼朝を、一族の命運をかけて支え、坂東武者をまとめ上げた自負。それが、比企氏の好き勝手を許すわけにはいかなかったのか。
そのあと直ぐ、頼家は出家させられ、伊豆の国の修繕寺に送られます。そして翌年、入浴中に北条氏の手の者によって惨殺されたといいます。
将軍在位わずか1年2か月、享年23歳でした。
3代将軍・実朝も暗殺される
頼家の後を継いで将軍の座に就いたのは、頼朝の次男・実朝(演:柿澤勇人)。生まれは1192年。乳母となったのは阿波局でした。頼家の乳母だった比企尼の娘たちへ対抗した形です。
将軍・頼家が短命で終わったことを考えると、この時すでに実朝を将軍に据える北条氏の計画が始まっていたとも言えます。それを証明するのが、頼家から実朝への将軍継承の手際の良さです。
ここで注目したいことは、④の時点で一連のことが京の後鳥羽天皇に伝えられていたこと。さらに不可思議なことに、朝廷にその文面に
「頼家はすでに9月1日に死亡した」とあったのです。
しかし、1日時点では、まだ頼家は生きており、殺害されたのは翌年1204年になってからです。つまり、
一連の出来事は北条氏の策略だったわけです。
実朝が将軍となると、本人が12歳と幼いことをいいことに、時政は権力の強化に乗り出します。
まず政治的には大江広元(演:栗原英雄)と共に政所別当(行政の長官)、のちの初代執権職に就任。朝廷での幕府代理には、娘婿の平賀朝雅を派遣しました。
また軍事的には、侍所別当の和田義盛(★、演:横田英二)を従え、事実上の武士団トップとなりました。
暴走の執権・時政が失脚
しかし、間もなくして北条氏の内紛が勃発します。
北条氏と比企氏の騒動の際、政子は息子・実朝を時政から引き離し、息子が主導権争いの道具にされることを回避。そこにはあったのは、時政を陰で操る
後妻・牧の方(演:宮沢りえ)の存在です。
2年後、家族内の争いは決定的に。朝雅を将軍にしようという策略が発覚し、政子は再び実朝の身柄を確保。そのうえで、弟・義時(★演・小栗旬)と結束し、父の時政を出家させ、朝雅を殺害したのです。
強まる天皇と実朝の結びつき
そんな政権争いに翻弄されながらも実朝は成長。一人前に政治を司ることができるようになりました。同時に、和歌へ傾倒するなど京の文化に傾倒していきます。それが、
実朝の命を縮めることになります。
この実朝の“京へのあこがれ”に目を付けたのが、後鳥羽上皇(演:尾上松也)でした。そもそも上皇は実朝の名づけ親でもあります。
和歌ついてやり取りをするうちに、上皇への尊敬の念を強くする実朝。自身に実子のなかったため思い付いたのが、
上皇の皇子を将軍の跡継ぎにする方法です。
これには、政子をはじめ幕府の重鎮たちも支持。幕府の権威が一層高まるからでしょう。
甥に殺された実朝
しかし、それを良しとしなかった人物がいます。それは、
頼家の遺児・公暁(演:寛一郎)です。
公暁は、源家の中で微妙な存在であり続けました。頼家の正室の長子でありながら、兄・一幡の母の父が権力者の能員だったため、嫡男として扱われなかったと言います。
能員と頼家の死によって微妙な立場となった公暁。それを祖母の政子が、1205年、鶴岡八幡宮に入室させ、翌年には7歳で実朝の養子にしたのです。これも“母心”ならず“祖母心”だったのでしょうか。
しかし、将軍への道は絶たれました。
右大臣の拝命を鶴岡八幡宮を参拝した実朝を、公暁は長い石段のふもとで待ち受け、一気に殺害してしまったのです。享年26歳。
一見、公暁の実朝に対する恨みによる殺害に見えるこの事件ですが、
義時は知っていた、という説があります。
なぜなら、参拝に同行するはずの義時は、病で急に取りやめたらしいのです。もし、現場にいたら、公暁の奇行を止めに入ることになったでしょう。
源家は、所詮“よそ者”だった
当時、坂東と言えば田舎も田舎。当地の武者たちは、荒々しくも地元意識が強かったと言われています。
一方、同じ武将でも頼朝は、都の由緒ある家柄の直流。両者はどうしても相容れない関係が続いたのでしょう。つまり、どんなに御家人が増えようと、
頼朝は「外から来た社長」だったのです。
頼朝は、それを自覚して、粛清と懐柔を巧みに使って、御家人たちをひきつけることができました。しかし、その子、頼家、そして実朝には、頼朝のように苦難を乗り越えた経験や知恵もありません。
将軍とは名ばかり。
母の実家・北条氏をはじめ御家人たちを掌握することは到底無理だった思われます。
実朝の死後、京の九条家からまだ2歳の藤原頼経を招き入れました。実質的に幕府を率いたのは執権となった義時と姉の政子となりました。
その後、幕府と朝廷の軋轢は拡大。1221年の承久の乱で両者は激突することになります。■
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