青天を衝け【渋沢栄一】とは?~本当にすごい!波乱万丈の生涯
【7日間のビッグセール Amazon ブラックフライデー 11/26~12/2】
2021年のNHK大河ドラマ「青空を衝け」で、その生涯が一年にわたって詳しく紹介される渋沢栄一。2024年(令和6年)から発行される新1万円札の肖像にも抜擢されています。
「日本資本主義の父」
とも称され、日本の経済史では度々取り上げられる渋沢。ただ、一般の私たちにとっては、彼がどのくらいすごかったのか、正直あまり知りません。
渋沢栄一は、日本にとってどいう人物だったのか?
もちろん彼は近代日本の土台作りに貢献した人ですが、本当の意味で「破天荒な人生」を送ったようです。まさに大河ドラマにピッタリのその生き様を、2分余りで分かりやすくご紹介します。
これを読めば、「青天を衝け」をより興味深く見られること請け合いです。
豪農の坊ちゃん
渋沢栄一が生まれたのは江戸時代末期。生年月日は、
1840(天保11)年2月13日。
ちなみに同じ年には、幕末の長州藩士・久坂玄瑞(~1864)、ロシアでは大作曲家・ピョートル・チャイコフスキー(~1893)が生まれています。同じ年、お隣、清国では、
アヘン戦争が起こっています。
当時の日本は、全国的な凶作続きで、コメの値段や物価が高騰し、各地で百姓一揆が発生。多くの人々が都市になだれ込み、治安が乱れていました。翌年からは、幕府の老中・水野忠邦が「天保の改革」という経済政策を行いましたが失敗に終わりました。
栄一には、兄弟は十数人いましたが、多くが早くに亡くなり、残されたのは栄一の他は、姉と妹の二人のみ。そのため栄一は、
嫡男として大切に育てられました。
栄一の故郷は、現在の埼玉県深谷市血洗島ということころです。「血洗」というグロテスクな名前は、太古の神々の争いや平安時代の戦に因んでいるといいます。村の南には中山道の深谷宿、そして東には舟運の中瀬河岸あり、人の行き来が多かったようです。
栄一の実家は、村で一、二を争う豪農。染物に使う藍葉の栽培のほか、麦の栽培と養蚕を営んでいました。また日常雑貨を作ったり、お金を貸したり、将来の栄一を物語る家だったうようです。
文武両道の少年が熱い志士に
裕福な農家の一人息子であったため、栄一は農作業よりは学問と武術をたしなむ少年時代を過ごしたようです。その姿は、
血洗の神童そのものです。
5歳の時、学識のあった父・市郎右衛門の指導で『四書』*を読み、7歳には、従兄で秀才の尾高惇忠のもとで『論語』などを本格的に学ぶという、まさに英才教育を受けました。
*「大学」「中庸」「論語」「孟子」の4部の書。五経と並んで儒学の基本となる書。
また剣術もしかり。10歳のころ、従兄・渋沢新三郎から、神道無念流*を学びました。その腕前は、なかなかなものだったといいます。
* 新撰組から長州、水戸の志士まで幅広い志士が習得していた流派
13歳ごろになると、栄一は積極的に家業に取り組みます。藍葉の買い付けのために長野や群馬へ足を運んだりしていました。
こういう多角的な鍛錬を積んでいくうちに、栄一にある感情が生まれます。それは、
江戸幕府への怒りです。
栄一は地元の豪農の長男として、当地を収める岡部藩と接触する機会がありました。その際に、渋沢家に融資を求める役人の高慢ぶりが許せなかったといいます。
1854年、幕府は列国の圧力に屈して不平等条約を締結。その一方で、庶民には圧力をかける体質。学識がある栄一が、日本の国を司る政治権力に不満がたまるのも無理はありません。そこである思想に共鳴します。それは、
「尊王攘夷」です。
当時の日本各地のインテリ層の間で盛り上がった政治的スローガン。天皇を重んじ、外国の列強の侵入を排除するという考え方です。
従兄の惇忠は尊王攘夷の思想を発展させた水戸学に明るく、その教え子である栄一も多大な影響をを受けました。そういう事情もあり、尾高家への出入りも多かったからでしょうか、栄一は、
18才の時、惇忠の妹・千代と結婚しました。
しかし、新婚生活に浸ることもなく、別の従兄(とにかく従兄が多い)、尾高長七郎を頼って江戸に出ます。目的はさらなる鍛錬です。剣術は当時の江戸3大道場の一つ、千葉道場で鍛錬を積みました。(現在の神田辺りにありました)この道場で学んだ大物と言えば、
あの坂本龍馬です。
しかし、龍馬は栄一が入門する少し前に免許皆伝となり土佐に帰ってしまったので、接触はなかったと思われます。ちなみに、千葉道場の流派は、北辰一刀流*です。
* 現代剣道に最も近り古流と言われている。その型は実践向きで、応用も利く。
学問は長七郎が通っていた儒学者の塾で学びました。(儒学では五経や四書を学ぶ学問)こういう学びの場では、長州や水戸から来ている若者もいたようで、栄一も大いに感化させられたことでしょう。そして挙句の果てに思い立ったのは・・・
攘夷の実行計画です。
計画は高崎城(群馬県)を襲って軍備を整え、横浜に下って外国人居留地を襲うという大胆なものでした。惇忠とその弟・渋谷喜作と共に立案しました。
武器となる刀は手分けして各所で購入。実行メンバーは塾や道場、そして地元から、合わせて約70人集めました。資金は実家の商売から工面したようです。
決行は1863年11月と決めていましたが、江戸から駆け付けた長七郎に中止するよう説得され、断念します。栄一は、もし計画が発覚すると、家族、親戚に迷惑をかけるということで、喜作と共に京へ逃亡しました。(栄一は23歳)
一橋家の家来から欧州派遣に
逃げた京は栄一と喜作にとって新天地、当てはありません。それでも江戸で知り合った一橋家の家臣・平岡円四郎に接触することができました。当時、一橋家の当主は、
後に15代将軍となる、一橋慶喜です。
当時、慶喜は御所の警備役を命じられていたため、家来の増員に迫られていました。そこで円四郎は、ここぞとばかり栄一と喜作を雇うことにしました。これによって、
栄一は武士になったのです。
栄一は幕府に反感を持っていたので、この動きは一見、矛盾しているように見えますが、慶喜の父・徳川斉昭は、水戸学を推し進める水戸藩の藩主でもあります。よって、慶喜の家来になることは、栄一たちにとってポリシーに反することではなかったようです。。
★合わせて読みたい →【徳川慶喜】①史実に見る「最後の将軍」誕生の秘密
大河ドラマで注目【徳川慶喜】①史実に見る「最後の将軍」誕生の秘密
一橋家に仕えるようになると、栄一は水を得た魚のように才能をいかんなく発揮し、次々と仕事をこなしていきます。最初は館の門番でしたが、直ぐ家来の採用と他藩との交渉役、そして領内の財政や軍備の担当に。そのうちに慶喜に直に進言できるアドバイザーにもなってしまいます。(ちなみに慶喜は、栄一より2歳年上)。
そして2年も経たないうちに、一橋家の財政のトップに上り詰めます。この時の年収が450万円、京滞在手当が月250万円ぐらにもなりました。田舎の農家の息子にとっては、まさに大出世です。しかし、間もなく異変が起きます!
1866年7月、慶喜が15代将軍になったのです。
自動的に幕臣になった栄一の心は大きく揺れます。なぜなら、ほんの2~3年前、自分は仲間と幕府に反抗する攘夷を決行しようとしたからです。「このまま慶喜に従えば、自分が避難していた幕府の一員になってしまう」。そんな栄一の苦悩を察したのか、慶喜は転職を進めます。それは、
パリ万博への派遣団メンバーです。
慶喜の名代として異母兄弟の徳川昭武が、満13歳で派遣団を率いることになりました。栄一はその補佐役に命じられたのです。
1867年1月、一団は横浜を出発。パリの万博では各国の発展ぶりを目の当たりにしました。その後栄一は、昭武に付き添いながらフランス各地の他、スイス、ベルギー、オランダ、そしてイタリアを訪問。ヨーロッパの社会や経済の仕組みを直に見ることになりました。(栄一は27歳)
明治政府で国造りに参加
そんな折、思わぬニュースが本国から届きます。
慶喜の大政奉還です。
一向は急きょ帰路につき、翌年1968年11月に横浜に帰港。その時、既に元号は明治となっていました!
一旦、故郷の戻った栄一ですが、すぐさま静岡に向かいます。そこで、慶喜が蟄居する駿府藩の財務担当として仕えます。そして翌年、1869年1月、彼にとって初めてとなる金融商社「静岡商法会所」を設立します。(ただ、8月には廃止)ところが、同年11月、
栄一に明治政府から要請がきます。
国内行政を管轄する民部省に勤務するようにというのです。栄一は最初渋っていましたが、仕方なくこれを引き受けました。当時の民部・大蔵卿は伊達宗城です。(栄一は29歳)
官僚時代の栄一(出典:Wikipedia)
入省すると、再び八面六臂の活躍が始まります。租税の担当から、様々な改正を行う部署の長も担いました。官僚の栄一が、仕えた3年間に成し遂げた主な仕事は、次の通りです。どれも新しい国の礎になる政策・事業ばかりです。
- 全国の測量計画
- 度量衡の統一
- 税制改革
- 銀行や郵政制度の制定
- 鉄道敷設
- 廃藩置県の促進
これらの中で特筆すべきなのは、廃藩置県を実施する際の栄一が取った秘策です。廃藩置県は、各藩が地元の地権を放棄する代わりに負債を政府が請け負うというもの。しかし、政府もまだ財政的な余裕はありません。
そこで、栄一は欧米を見習って国債を発行。民間からお金を集めることで、明治政府の中央集権化を実現させました。その一方で、
栄一は、その頑固さで内部から反発を浴びました。
官僚時代に栄一がモットーとしたものは、「ない袖は降らぬ」という考えです。当時、日本の西洋化のために、軍備を中心に多額の資金が必要でした。各庁から予算の要求が大蔵省に殺到しましたが、栄一はこれらを国の蓄えを加味して厳しく対応しました。
結局、省のトップである大久保利通と対立。愛想をつかした栄一は官僚を辞めてしまいました。この時示した健全な財政への考えは、その後の栄一の経営ポリシーとして堅持されていきます。
日本経済の基盤づくり
もともと豪農で商家の息子。私人となった栄一は、実業家としてその才能を遺憾なく発揮していきます。まず、とりかかったのが日本で初のプライベートバンク、
第一国立銀行(現みずほ銀行)の創設。1873年のことです。
栄一は一人で殖産興業を実現するかの如く、業種を問わず、様々な会社の設立や支援を行っていきます。
関わった企業は、なんと約500企業!
主なもを上げます。
- 抄紙会社(後の王子製紙)
- 東京ホテル(後の帝国ホテル)
- 石川島平野造船所(後のIHI)
- 共同運輸(後の日本郵船)
- 東京海上保険会社(後の東京海上日動火災保険)など
インフラの整備にも多大な助力を行っています。主な例は、
- 東京電灯会社(後の東京電力)
- 東京瓦斯会社(後の東京ガス)
- 東京株式取引所(後の東京証券取引所)
- 東京商法会議所(東京商工会議所)など、
また栄一は、教育機関や社会団体組織の創設に貢献しています。
その数は、約600に及びます。
教育面では、
- 東京商業学校(一橋大学)
- 日本女子大学校(日本女子大学)など
また社会事業で代表的なのは、日本が発展していく中で、社会から取り残された子供や貧民たちを保護していた東京養育院です。(現在は東京都健康長寿医療センター)栄一はここの院長を30代で引き受け、亡くなる91歳まで務めました。
晩年は外交分野で活躍
1909年。数えで70歳になったことを契機に、栄一は多くの企業・団体の役員を辞任。1916年には、第一銀行(元国立第一銀行)の頭取を辞め、実業界から引退しました。(栄一は76歳)
しかし、栄一の活動は収まるどころか、再び拡大していきます。その舞台は外交分野です。日本のさらなる国際化のために、各国からの要人を自宅でもてなしました。また国際会議があると政府と一緒に赴き、日本と他国との相互理解に努めたといいます。その功績から栄一は、
ノーベル平和賞候補に2回なっています。
十代のころから精力的に動き回った栄一。しかし、1931年に入ると腸閉塞で苦しむようになり、直腸がんの手術を受けることに。手術自体は成功したようですが、その後、心配されていた肺炎にかかってしまいました。
そして11月11日に逝去。享年91。
葬儀の時の車列は100台以上。邸宅から青山葬儀場まで続いた葬列では、沿道で約3万人が見送りました。■
-
前の記事
分かりやすい【織田信長】の生涯③~未完に終わった野望の総まとめ 2020.12.17
-
次の記事
どこまで実話か?朝ドラ「おちょやん」モデル:浪花千栄子の後半生は 2021.02.20