【明智光秀】を出世街道に導いた4人の上司たち

【明智光秀】を出世街道に導いた4人の上司たち

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀。一般的には「天下の謀反人」として有名ですが、名もない下級武士から身を起こし、数日と言えども「天下人」に上り詰めたるという「大出世」を成し遂げた人物とも言えます。

2分でわかる【明智光秀】の生涯~【本能寺の変】までの道のり

名だたる武将が勢力争いをする戦国の世で、「なぜ光秀は頂点に上り詰めることができたのか?」。そこにはカギとなった「4人の上司」の存在がありました。

そこで今回は、その上司たちと光秀の関係をご紹介しながら、現代にも通じる「光秀の出世術」を解き明かしていきたいと思います。

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斎藤道三~首領たる姿を見せた

20代は、美濃(岐阜県南部)のごく一部を収める領主一門の若侍だったとされる光秀。その頃、後に重要になる領地を治めるノウハウ、

<統治のいろは>を学んだと思われます。

その環境に欠かせなかったのが、領主だった父(一説に光綱)と叔父・光安が仕えていた斎藤道三(1494~1556)の存在です。「美濃のまむし」と言われた道三が美濃で堅持していた絶大な権力の下、光秀は大きな戦(いくさ)に巻き込まれることもなく、青年期を過ごすことができました。

斎藤道三 出展:wikipedia

斎藤道三とは?

当時、光秀の“親方さま”であった道三はどういった人物だったのでしょうか。

道三の父は京都の僧侶でしたが、油売りの商人になり、その後、美濃で守護大名・土岐氏に仕えるようになったといいます。道三は、父と共に奉公を続け、1533年ごろの当主に。美濃の主導権争いで土岐頼芸の家臣として活躍した後、542年、その頼芸から政権を奪い取って、美濃の国主に上り詰めました。下剋上を絵に描いたような人物です。

光秀と直接の関係も

江戸時代の文献によると、道三の正室だったのが光秀の叔母・小見の方であったとも言れています。もしそれが事実ならば、光秀は道三と直接繋がりもあったと予測できます。下剋上の達人の近習となり、戦国武将の心得を直に学んだかも知れません。

出世への教訓①:血のつながりがなくても、親戚に有能な人物がいたら、機会を作って教えを乞う。

事態が急変したのは、1555年。道三は側室の子・斎藤義龍によって孤立無援とされ敗走。翌年、覇権を奪い返そうとして反旗を翻しますが、返り討ちにあいました。そのあおりを受けて、叔父の城も襲撃されたため、光秀はあえなく落ち延びることになったようです。

朝倉義景~教養を育む環境を与える

光秀は兵法と治政の能力に加えて、京の文化や上方のしきたりに精通していたと言われています。和歌に関しては相当の腕前だったそうです。そこで気になるのは・・・

どうやって、その<文化的な素養>を育んだのか?

それは、美濃から落ち延びた先にヒントがあります。そこは、越前(石川県)の大名、朝倉義景の拠点、一条谷の近隣です。一乗谷は、現在の福井市から東に10キロほど入った谷あいにありました。しかし、なぜ光秀は山の中で文化的な教養を育むことができたのでしょうか。

朝倉義景 出典:wikipedia

朝倉義景とは?

朝倉氏は南北朝時代(1336~1392) に足利将軍家に仕えていました。そこでの功績を認められ、越前の地をあやかり、初代・孝景が一乗谷城を築きました。

義景は、朝倉家の11代目の当主。父の時代に、将軍家との結びつきが再び強くなり、義景は左衛門督という武将としては誉れ高い官位を受けていたようです。隣国・若狭の国の守護である武田義統の求心力を失うと、繰り返し出兵して反抗する武将らを討伐し、将軍の権威維持に貢献しました。

文化の香りがする場所

こういった幕府との関係に加え、京都から比較的近いこともあって、京から逃れた公家や貴族が身をひそめる場所にもなっていたようです。

そのため、この地で10年あまり過ごしたと思われる光秀は、京に住まわずとも、公家や京の人たちと交わり、上方の文化やしきたりを学ぶことが出来たと推測されます。

この時の光秀は、落ち武者として密かに身を隠していたとも言えるのですが、その代わり、長い年月の間、ひたすら内面を磨く修練に勤しむことができたのかもしれません。

出世への教訓②:たとえ左遷されても、その地の利を生かし、自分の内面を磨いておくこと。

足利義昭~表舞台へのキッカケを与えた

光秀39歳。民を収めるノウハウと、教養も十分養い、いよいよ歴史の舞台に登場する時が来ました。それを実現したのは、何を隠そう15代将軍・足利義昭です。当時、やっと義景の足軽衆となった下っ端の光秀が、

どうやって<大物に接近>することができたのでしょうか?

それは、ズバリ、血縁関係を上手く利用したからです。

上洛狙う足利義昭

1565年。室町幕府の主導権をめぐって事件が起きました。13代将軍・足利義輝が、実質的に幕府を牛耳っていたグループ・三好三人衆らに殺害されたのです。実弟の義昭も寺に幽閉されてしまいました。しかし、将軍の権威の復活を望む者たちによって救出され、支援を求め各地の武将のところを転々。最終的に越前の義景に頼ってきたのです。

足利義昭 出典:wikipedia

義昭としては、義景の後ろ盾を持って京に上洛し、新しい将軍として立場を確固たるものにしたいという思惑がありました。しかし、義景に敢え無く断られたのです。途方にくれていた義昭のところに名乗り出たのが、足軽衆の光秀であったようです。

歴史を動かした光秀の妙案

光秀は義昭に一案を持ち掛けます。それは、美濃をも飲み込んだ尾張(愛知県西部)の織田信長に支援を願い出るというものです。

ただ、なぜ下級武士の光秀が将軍を信長に引き合わせることができたのか。それは光秀の親戚に強いパイプがあったからです。叔母の小見の方と道三の娘、帰蝶(濃姫)は、信長の側室になっていました。彼女を伝手にして、義昭と信長を引き合わせようとしたのです。

光秀のアイディアは思案通りになります。信長も天下に自分の力を見せつけるため、義昭と共に上洛することは悪い話ではなかったのです。

光秀の計画は瞬く間に見事実現。1568年、義昭は信長に守られながら上洛。ほどなくして、第15代将軍に就任します。この一連の過程で、光秀は将軍に正式に仕えるようになりました。

出世への教訓③:高い見地に立って実力者を結びつけ、自分のポジション以上の成果を目指せ。

晴れて将軍になった義昭でしたが、それを倒そうとする三好三人衆らに襲わます。光秀は他の武将たちと共に将軍を守り、この時の働きが、光秀を次のステージに押し上げることになったようです。

織田信長~才能を発揮させる

光秀の武将としての運命を開花させたのは、天下統一を目指し、ばく進していた織田信長です。ただ、信長の周りには、百戦錬磨の並み居る兵(つわもの)がいました。例えば、羽柴秀吉柴田勝家村井貞成蜂屋頼隆丹羽長秀。そして信長の一門の武将たちです。その中で、

なぜ、光秀は<順調に出世>できたのか?

<一つ目の理由>は、光秀が、勢力拡大が加速し始めた信長と絶妙のタイミングで知り合うことになったからです。

織田信長 出典:wikipedia

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ばく進する信長の右腕に

義昭を将軍へと押し上げた後、信長は天下統一への歩みを着々と進めていきます。これに伴い、信長の家臣としての光秀の動きが目立ち始めます。主なものは・・・

  • 1570年の姉川の戦いに参加し、かつての主君・朝倉氏と対決
  • 1571年、近江・宇佐山城の城主に任ぜられる
  • 同年、比叡山焼き討ちで活躍

この他にも、光秀は領内の治政や京の行政もそつなくこなしています。

出世への教訓④:勝ち馬に乗ったら、能力全部を出して尽くすこと

しかし、信長の勢力拡大と共に、義昭との関係は次第に対立の方向に流れていきます。両者に仕える光秀は苦しい立場になりましたが、躊躇なく信長を選びました。そして1572年には、信長から坂本城(琵琶湖西岸)を築城を命ぜられ一国一城の主、つまり大名になったのです。

光秀が出世街道をばく進できた<二つ目の理由>、信長の勢力が急速に拡大しすぎたことにあります。

領地を拡大すればするほど、戦の回数が増え、有能な家臣遠方に派遣し、時には優秀な人材を失うこともあります。また、戦に勝てば勝ったで、奪った領地を任せる人材が必要になります。

そんな人材不足のなかで、信長のなかで光秀の存在感は高まったはずです。光秀は陣頭指揮もでき、行政能力もある武将でした。たとえ信長軍団での新参者であろとも、信長には必要不可欠な武将だったと思われます。

出世街道の終着点

その後も、信長の勢力拡大を続けるなか、軍事・治政の両面で貢献していきます。その中で最重要とされたのが、丹波(京都県北部)の平定です。

丹波の地は、信長に激しく反抗を続ける守護代家の内藤氏と宇津氏がいました。1576年に信長から出陣を命じられた光秀。苦戦を強いられますが、4年の歳月をかけて丹波の国の平定を果たします。

その恩賞として丹波の国を賜った光秀。並み居る武将をごぼう抜きにして、信長軍団一の武将となりました。

しかし、それから2年半後、光秀は天下を取る決断をします。「本能寺の変」です。出世を順調に続けてきた光秀。最後の仕上げは組織のトップになること。戦国時代では天下人(てんかびと)になるということなのでしょうか。当時の寿命にである50半ば(他説あり)に差し掛かった光秀は、出生の総仕上げを一気に果たしに行ったのでした。■